勾舍人部・勾靫部の設置

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安閑天皇(十一)勾舍人部・勾靫部の設置

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原文

二年春正月戊申朔壬子、詔曰「間者連年、登穀接境無虞。元々蒼生、樂於稼穡、業々黔首、兔於飢饉。仁風鬯乎宇宙、美聲塞乎乾?。內外淸通、国家殷富。朕甚欣焉。可大酺五日爲天下之歡。」夏四月丁丑朔、置勾舍人部・勾靫部。

現代語訳

即位2年春1月5日。詔(ミコトノリ)して言いました。
「このごろ、しきりに穀物が実り、境を接しているところには憂いが無い。元々蒼生(オオミタカラ=百姓)は生業を喜んで行い、業々黔首(オオミタカラ=百姓)は飢饉を免れている。仁風(メグミノノリ=天皇の人徳)は宇宙(クニノウチ=国中)に広がり、美声(ヨキナ=褒め称える声)は天地を満たした。内外(ウチト=国の内と外)は清らかに通り、国家は賑わい、富める。朕(ワレ)はとても喜んでいる。おおいに酒飲み、5日は天下を喜ぼうではないか」

夏4月1日。勾舍人部(マガリノトネリネ)・勾靫部(マガリノユキベ)を置きました。
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解説

勾舍人部(マガリノトネリネ)・勾靫部(マガリノユキベ)
「勾」は安閑天皇の本名の「勾大兄広国押武金日天皇」から。舎人は従者で、靫は矢を入れる筒。そういう部民というか、先住する集団を作ったという意味。部民を残すのは後世に名を残すためです。
元々蒼生…
この安閑天皇の詔は中国の「漢書」の元帝紀・文帝紀の一文を参考していると言われています。だからこの一文は後世の創作、というのがよくある説なんですが、後世の創作にしては前後の流れを完全にぶった切っていて不自然。これって後世の創作ではなく実際の当時の天皇が「発言」したのではないかと。つまり当時の官僚が安閑天皇の発言の「原稿」を書いて、それをイベントで発言した。その原稿が残っていて、そのまま日本書紀に書いた…じゃないかと最近は思っています。
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