春日山田皇女と神前皇女を合葬する

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安閑天皇(十四)春日山田皇女と神前皇女を合葬する

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原文

冬十二月癸酉朔己丑、天皇崩于勾金橋宮、時年七十。是月、葬天皇于河內舊市高屋丘陵。以皇后春日山田皇女及天皇妹神前皇女、合葬于是陵。

現代語訳

(即位2年)冬12月17日。安閑天皇は勾金橋宮(マガリノカナハシノミヤ)で崩御しました。その時、年齢は70歳。

この月に河内の旧市高屋丘陵(フルイチノタカヤノオカノミサザキ)に葬りました。皇后の春日山田皇女(カスガノヤマダノヒメミコ)と、天皇の妹の神前皇女(カムサキノヒメミコ)をこの陵に合わせて葬りました。

解説

継体天皇のところで百済本記の中に「天皇と太子と皇子が死んだ」という記述があり、それがこのページの「皇后と皇女との合葬」に対応しているのだ、という説があります。となると百済本記は日本の「太子と皇子」を「皇后と皇女」を取り違えていたということになります。
継体天皇(四十三)藍野陵に葬る・百済本記の異説
ここに25年に崩御したというのは百済本記を取って文(フミ)を作ったからです。その文に伝えられるのは、
「太歲辛亥3月に軍が進んで安羅(アラ)に至り、乞乇城(コツトクノサシ)を作りました。この月に高麗の王の安(アン)を殺しました。また聞くところによると、日本の天皇及び、太子、皇子もともに崩御したといいます」

そりゃねぇだろ。と思っていましたが、日本書紀を読むと「皇女」を非常に特別視しているのが分かります。わたしは、権力者は天皇でも、権力の基盤は皇后にあったんじゃないかと思うのです。これは神功皇后が神がかり、仲哀天皇や武内宿禰がその言葉を解釈して伝えるのと同じでしょう。

百済という「国の構造」から考えると「太子」が日本の「皇后」にあたり、「皇子」が日本の「皇女」にあたる…というように「日本の権力」の構造と、朝鮮や中国の構造が全く違うことから来る表現の違いなのかもしれない・・・と考えています。
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