己知部の帰化・磯城嶋金刺宮・漢人と秦人の戸籍

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欽明天皇(六)己知部の帰化・磯城嶋金刺宮・漢人と秦人の戸籍

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原文

二月、百濟人己知部、投化。置倭国添上郡山村、今山村己知部之先也。三月、蝦夷・隼人並率衆歸附。秋七月丙子朔己丑、遷都倭国磯城郡磯城嶋、仍號爲磯城嶋金刺宮。八月、高麗・百濟・新羅・任那並遣使獻、並脩貢職。召集秦人・漢人等諸蕃投化者、安置国郡、編貫戸籍。秦人、戸數總七千五十三戸、以大藏掾、爲秦伴造。

現代語訳

(即位1年)2月に百済人の己知部(コチフ)が投化(オノヅカラマケル=天皇の徳を慕って帰化すること)しました。倭国の添上郡(ソフノカミノコオリ)の山村(ヤマムラ=大和国添上郡山村郷=現在の奈良県奈良市帯解本町・田中町)に置きました。今の山村の己知部(コチフ)の先祖です。

3月に蝦夷(エミシ)・隼人(ハヤヒト)はともに衆(トモガラ=仲間・一族)を率いて、帰属しました。

秋7月14日。都を倭国の磯城郡(シキノコオリ)の磯城嶋(シキシマ=現在の奈良県桜井市金谷)に移しました。それで磯城嶋金刺宮(シキシマノカナサシノミヤ)としました。

8月に高麗・百済・新羅・任那はともに使者を派遣して品を献上し、貢職(ミツキ)を献上しました。秦人(ハダヒト)・漢人(アヤヒト)たちは諸藩(トナリノクニ=隣国)の投化(オノヅカラマウケル)した人を呼び集めて、国郡に安置して、戸籍を編纂しました。秦人の戸の数は7053戸。大藏掾(オオクラフビト)を秦伴造(ハダノトモノミヤツコ)としました。
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解説

戸籍について
「戸籍」の記述ではこれが初。その戸籍が「漢人・秦人」という帰化氏族を対象にしていたことを考えると、異民族の管理のために朝鮮での戸籍をそのまま持ってきたという「限定的な」利用だと考えたほうがいいのではないかなぁと思います。

この記述を「嘘」「修飾」と見る人は多いですが、何もないのに書くのはおかしい。と考えると、実際に何かしらの戸籍が作られたと考えたほうが自然。
戸籍っぽい記述は崇神天皇の時代にも
崇神天皇(十九)ハツクニシラス天皇(日本書紀)
「このとき、ついでに人民(オオミタカラ)の小口調査をして、長幼(コノカミオトト=大人と子供=年齢)を調べて、課役(オオセツカフコト=税金や雑徭)を知らせよう」
と言いました。

崇神天皇の時代には調査はしても「記録」までは無かったのではないかと。
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