津守連・下韓の郡令と城主

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欽明天皇(十八)津守連・下韓の郡令と城主

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原文

冬十一月丁亥朔甲午、遣津守連、詔百濟曰「在任那之下韓、百濟郡令・城主、宜附日本府。」幷持詔書、宣曰「爾、屢抗表、稱當建任那、十餘年矣。表奏如此、尚未成之。且夫任那者爲爾国之棟梁、如折棟梁、詎成屋宇。朕念在茲、爾須早建。汝若早建任那、河內直等河內直已見上文自當止退、豈足云乎。」是日、聖明王聞宣勅已、歷問三佐平內頭及諸臣、曰「詔勅如是、當復何如。」三佐平等答曰「在下韓之我郡令・城主、不可出之。建国之事、宜早聽聖勅。」

現代語訳

(即位4年)冬11月8日。津守連(ツモリノムラジ)を派遣して、百済に詔(ミコトノリ)して言いました。
「任那の下韓(アルシカラクニ)にある百済の郡令(コオリノツカサ)・城主(キノツカサ)は日本府につくべし」
あわせて詔の書(フミ)を持たせて、宣(ミコトノリ)して言いました。
「その方、しばしば表(フミ)を送りて意見を述べてきた。任那を再建するべきだと言って、十数年だ。表(フミ)を奏上はしてきたが、未だ尚、成し遂げていない。また、その任那はその方の国の棟の梁(ハリ=重要な柱)だ。この棟梁を折れば、誰が屋根を作るというのか。朕(ワレ)が思うのはここだ。その方は、速やかに任那を再建しなくてはいけない。おまえがもし、速やかに任那を再建すれば、河内直(カフチノアタイ)たちは自然と退くだろう。言うまでもなくなぁ」
河内直はすでにこれまでの文に見えている。

この日、聖明王は宣勅(ミコトノリ)を聞き終わって、三佐平内頭(ミタリノサヘイナイヅ)と諸々の臣下たちに順々に問いました。
「下韓にある我らの郡令・城主を出すなよ。国を再建することは速やかに聖勅(ヒジリノミコトノリ)を聴くべし」
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解説

津守さんは、大阪(摂津)の住吉大社の宮司で、この時代に勢力を持った氏族。住吉というと、神功皇后に朝鮮征伐を進めた神の一柱(というか三柱一体だから三柱というべきか?)。つまり津守氏は神功皇后の時代の3世紀から4世紀にはすでに海外貿易で力を持っていた人で、むしろこの時代に急に名前が出ることの方が不自然な感じが。

これって津守という名前が成立したのがこの時代だ、ということなのでしょうか。
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