天武天皇について

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天武天皇について

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大海人皇子は皇太子ですがすでに天皇にふさわしい徳を持っていました。ある日、夢の中で聞いた童謡を皇位を継ぐお告げと判断し、夜中に川で黒雲を見て、皇位の継承を確信しました。
しかし、まだ皇位を継ぐ時期ではないと考え、一旦皇太子の位を捨てて出家して吉野山に籠ります。それから兵を集めて東国へ進軍しました。山を越え川を越え、雷電のような勢いで進軍しました。矛が勢いよく突き上げられ、兵士の歩く土ぼこりが舞いあがり、軍旗がきらめいているようでした。あっというまに近江の軍は敗れ、瓦礫のように崩れ去りました。12日もたたないうちに、辺りは落ち付き、戦争に使われた牛や馬に休息をとらせて、皇子は飛鳥の都に凱旋しました。
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解説

壬申の乱
中臣鎌足と蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子は天智天皇に即位します。その次の天皇として本来は大海人皇子がなってもおかしくないのですが、大友皇子が次の天皇になる予定でした。一旦は天智天皇から即位を促される大海人皇子ですが断り、出家して吉野山に籠ります。この間に兵力を蓄え、ついに大友皇子と戦争し勝利します。
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壬申の乱について

壬申の乱については諸説ある
古代日本の最大の内乱であり、反逆が成功した数少ない事例です(皇族では唯一の成功例かと)。この事件の原因はいくつか挙げられています。
理由①朝鮮半島進出失敗のため
神功皇后の朝鮮征伐以降、日本は朝鮮に進出しており、各国からの朝貢を受け、人質も預かっていました。しかし、新羅が唐と結んで百済を滅ぼし、その復興を賭けた戦いで唐・新羅連合軍に負けてしまいます。これが「白村江の戦い」です。
中国は近攻遠交…つまり「離れた国と国交を結んで隣国と戦争する」という政策を取ります(この方針は現在でも続いている)。だから唐は新羅と結んで、接していた百済と高句麗は滅ぼしたのです。となると、次は新羅。その次は日本です。
新羅と戦争をした天智天皇は新羅を憎んでいますし、当時、百済から避難した百済王族も居り、新羅とは距離があった。でも、このままではまずい、と考える勢力もありました。その代表が天武天皇となった大海人皇子だった、という説です。
理由②勢力戦争
理由①と絡みます。当時、天武天皇に味方した勢力は関東を中心とした勢力でした。それに対して、大友皇子の味方は吉備と九州の豪族。ところが九州は白村江の敗戦以降、いつ唐が日本に攻め来るか分からず、手を離せないと協力を拒みます。
これは単に九州が危険な状態だったということではなく天智天皇に人望が無かったという意味だと思われます。つまり皇位継承問題は皇族間の意志というよりは豪族の相違によってリーダーが選ばれたということ、かもしれません。
●天智天皇の政治手法には批判が多かった。例:有馬皇子を自殺させる。難波京に孝徳天皇を置いて遷都した。朝鮮半島政策

理由③額田王
額田王(ヌカタノオオキミ)という女性がいました。とんでもない美女だったとか、なかったとか。天智天皇の寵愛を受けて、その後は天武天皇が妻とした、というのが一般的な話。この三角関係の元ネタというのが万葉集の歌からですが、この歌は宴席での「洒落」で作った程度のことじゃない??ということで、疑問視する傾向も。
理由④兄弟ではない
天智と天武は皇極天皇と舒明天皇の子供とされます。しかし皇極天皇は再婚で舒明天皇の前に高向王という人物との間に漢皇子という子供をもうけています。その一方で天智と天武は弟である天武の方が「年上」なんじゃないか?という疑惑が以前からありました。この二つを合わせて、天武は漢皇子であり、本来天皇になるような身分ではなかったのではないか? そして、壬申の乱は単なる皇位継承問題ではなく、全く血筋の違う朝廷が成立した「討幕運動」だったのではないか?という説です。

原文

飛鳥の清原の大宮に、大八洲にしらしめし天皇の御世に曁りて、濳龍元を体し。?雷期に応じき。夢の歌を聞きて而業を纂がむことを相せ、夜の水に投りて基を承けむことを知りたまいひき。然れども天の時未だ臻らずして、南山に蝉蛻し、人事共洽わりて、東国に虎歩したまいき。皇輿忽ち駕して、山川を浚え渡り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。杖矛威を挙げて、猛士烟のごとく起り、絳旗兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けき。未だ浹辰移さずして、氣?自ら清まりき。乃ち牛を放ち馬を息へ。愷悌して華夏に帰り。旌を巻き戈をおさめ、舞詠して都邑に停まりたまひき。
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