聖明王の三つの策

MENU
TOP>欽明天皇(日本書紀)>欽明天皇(三十二)聖明王の三つの策
スポンサードリンク

欽明天皇(三十二)聖明王の三つの策

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

原文

聖明王謂之曰「任那之国與吾百濟、自古以來約爲子弟。今、日本府印岐彌謂在任那日本臣名也既討新羅、更將伐我、又樂聽新羅虛誕謾語也。夫遣印支彌於任那者、本非侵害其国。(未詳。)往古來今、新羅無導、食言違信而滅卓淳。股肱之国、欲快返悔。故遣召到、倶承恩詔、欲冀興繼任那之国猶如舊日永爲兄弟。竊聞、新羅・安羅兩国之境有大江水、要害之地也。吾欲據此修繕六城、謹請天皇三千兵士毎城充以五百幷我兵士勿使作田而逼惱者、久禮山之五城庶自投兵降首。卓淳之国亦復當興。所請兵士、吾給衣粮。欲奏天皇其策一也。猶於南韓置郡令・城主者、豈欲違背天皇遮斷貢調之路。唯庶、剋濟多難殲撲强敵、凡厥凶黨誰不謀附。北敵强大、我国微弱。若不置南韓郡領・城主修理防護、不可以禦此强敵、亦不可以制新羅。故猶置之攻逼新羅、撫存任那。若不爾者、恐見滅亡、不得朝聘。欲奏天皇、其策二也。又吉備臣・河內直・移那斯・麻都猶在任那国者、天皇雖詔建成任那不可得也。請、移此四人各遣還其本邑。奏於天皇、其策三也。宜與日本臣・任那旱岐等倶奉遣使、同奏天皇乞聽恩詔。」
スポンサードリンク

現代語訳

聖明王は語って言いました。
「任那国と我が百済は古(イニシエ)以来、子であり弟であると約束した関係だ。今、日本府の印岐弥(イキミ)…
印岐弥は任那に居た日本の臣の名をいいます。

既に新羅を征伐して、更にわたし(百済の聖明王)を征伐しようとしている。また、楽をして新羅の虛誕謾語(イツワリコト=嘘)を聴いている。印岐弥を任那に派遣しているのは、最初からその国を侵害しようとしてのことではない。
詳細ははっきりしない。

往古来今(ムカシヨリイマニ)、新羅には道理が無い。言葉を偽り、真実に背いて、卓淳を滅しました。股肱の国(タスケノクニ=?)は仲良くしようとしても、逆に恩を仇で返して悔いることになる。そこで招集の使者を派遣して、使者が到着して、共に恩詔(メグミノミコトノリ)を受け賜り、願わくば、任那国を起こし、引き継いで、昔のように永遠に兄弟国としていこう。密かに聞いたことによると、新羅と安羅の二つの国境に大きな江水(カワ)がある。要害の地だ。わたしはそこに六城(ムツノサシ)を修繕しようと思う。慎み、天皇の三千の兵士を請願して、城ごとを一杯にすれば、500人と合わせてわたしの兵士で、作田させずに、煩わしく困らせれば、久礼山(クレムレ)の五城(イツツノサシ)は自然と兵を捨てて投降するだろう。卓淳国(トクジュンノクニ)はまた再興するだろう。請願する兵士はわたしが衣・粮(カテ=食料)を支給しよう。天皇に申し上げようと思う。これが策(ハカリゴト)の一つだ。

南韓(アリヒシノカラ)に郡令(コオリノツカサ)・城主(キノツカサ)を置くということは、どうして天皇に背反し、貢調(ミツキ)の路(ミチ)を遮断しようとすることになるだろうか? いやならないだろう。ただ、願わくば、多くの災難から救済して、強敵を討ち滅ぼそう。すべての凶党(アシキアタ=悪い賊)は誰につくかを謀ることができないように。北の敵は強く大きく、我が国は小さく弱い。もし南韓に郡領(コオリノツカサ)・城主(キノツカサ)を置いて、修理して防護しないでいれば、この強敵を防ぐことができない。また新羅を制することも出来ない。これらを置いて、新羅を攻め、任那を存続させよう。もし、そうしなければ、滅ぼされ、大和朝廷に参上することも出来ない。天皇に申し上げようと思う。これが二つ目の策だ。

吉備臣(キビノオミ)・河内直(カワチノアタイ)・移那斯(エナシ)・麻都(マツ)が任那国にいれば、天皇が任那を再建しろと詔(ミコトノリ)しても、出来ない。願わくば、この四人を異動して、それぞれ本の邑(ムラ)へと派遣して帰そう。天皇に申し上げよう。これが三つ目の策だ。

日本の臣・任那の旱岐たちに、共に申し上げて使者を派遣して、同じく天皇に申し上げて恩詔(メグミノミコトノリ)を聴こうと乞い願え」
スポンサードリンク

解説

百済の聖明王は3つの策を提案します。一つは6つの城を修繕し、そこに兵を配置して防衛すること。二つ目は郡令・城主を置いていくこと。三つ目は任那にいる吉備臣・河内直・移那斯・麻都を帰国させるよう天皇にお願いすること。

三つ目の役人や臣を帰国させるというのは、散々提案されてきたことです。しかも、天皇は「なんか、臣たちが行ってからの方が、平和だって聞いてるよ」となって、有耶無耶になりました。それも、新羅の「嘘」に騙されているからだ!というのが百済の言い分でした。

ここに来て、城に兵士を、そして郡令・城主を配置するという策を百済が取るようになります。これはひっくり返すと、城に兵士を配置し、郡令・城主を配置するということを、百済はやっていなかった…もしくは積極的にはやってこなかったということになります。

どうやら古代の朝鮮半島では「戦争・防衛」という感覚が無かったのではないかと思うのですよね。言われてみれば、日本の古代の戦争の記述には「城を取り合う」というところはほとんどありません。多少、防衛することはあるんですが、「城」という戦争をそもそも目的とした建築物ってのが無いんですよ。そういえば、中国の役人が日本に来て、都を見て「これは都じゃない。だって城壁が無いから!」と発言したことがあります。

これは世界観の違いでしょう。

儒教の世界観では、国民は王のものです。よって他国に侵略され、王が変われば、男は奴隷、女は慰みものになります。だから国民までも敵国と戦うことになります。しかし、日本では基本、農民は農民で、兵士が戦うだけで、国民までは殺されません。あくまで傾向ですがね。そのせいで都も城壁を作ら無い。作る必要が無かった。日本の「王」は、土地を所有するのではなく、その土地の神を「奉る」「神官」という性質が強かった。だから王が土地を巡って戦うことはあっても、王が変わることで農民・国民までは殺されたり、奴隷になったり慰みものになることも無い。

百済はそういう日本式の世界観と、中国から伝わった新羅の儒教的世界観の狭間で苦悩していたのではないか?と考えています。
Pre<<<  >>>Next 
スポンサードリンク

SNSボタン

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

ページ一覧

スポンサードリンク

管理人リンク

編集