佐渡の粛慎人・粛慎隈(ハシハセノクマ)

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欽明天皇(三十四)佐渡の粛慎人・粛慎隈(ハシハセノクマ)

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原文

十二月、越国言「於佐渡嶋北御名部之碕岸有肅愼人、乘一船舶而淹留、春夏捕魚充食。彼嶋之人言非人也、亦言鬼魅不敢近之。嶋東禹武邑人、採拾椎子爲欲熟喫、着灰裏炮、其皮甲化成二人飛騰火上一尺餘許、經時相鬪。邑人深以爲異取置於庭、亦如前飛相鬪不已。有人占云是邑人必爲魅鬼所迷惑、不久如言被其抄掠。於是、肅愼人移就瀬波河浦。浦神嚴忌、人不敢近、渇飲其水死者且半。骨、積於巖岫、俗呼肅愼隈也。」

現代語訳

(即位5年)12月。越国(コシノクニ=北陸地方)が言いました。
「佐渡嶋(サドノシマ)の北の御名部(ミナベ=地名だが未詳)の岬の岸に粛慎人(ミシハセノヒト=蝦夷?)が居て、一隻の船舶に乗ったままでそこに留まっていました。春夏は魚を捕り、食べ物は十分にありました。その嶋の人は「人に非ず」と言いました。鬼魅(オニ)であるとも言って、近づきませんでした。嶋の東の禹武邑(ウムノサト)の人は、椎子(シイ=椎の実)を拾い採集して、食べようと思っていました。灰の中に置いて、炒りました。その椎の実の皮は二人の人間に化けて、火の上に飛び上がりました。その高さは一尺あまり。時をへて、二人は戦いました。村の人は深く不思議に思って、庭に置いておきました。また、前のように飛んで戦いは止まりません。ある人に占ってもらうと
『この邑の人は、必ず魅鬼の為に惑わされるだろう』
と言いました。
そう長い期間が経たないうちに言った通りに、略奪されました。粛慎人(ミシハセノヒト=蝦夷?)は瀬波河浦(セナカハノウラ)に移動していきました。浦の神は非常に霊威が強く激しい神でした。人は近づかないところです。水は濁っていて、その水を飲んで、死んだものは半数になりました。骨(カバネ)は厳岫(イハホノクキ=神聖な岩穴)に積み上げました。俗人はそこを粛慎隈(ミシハセノクマ)と呼びます」
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解説

突然、越国からの報告が。
ようは佐渡島の北の土地に異民族がやって来たわけです。この異民族である粛慎人(ミシハセノヒト)は、蝦夷なのか、それとも中国北方の異民族なのか、ハッキリしません。

粛慎人が島に住んでから他の島の住人は当然、訝しがるわけです。いやだなーと思っていたら、案の定、「椎の実が戦う」という不思議な出来事があり、それを持って「やばいことがあるぞ!」と占いの人が判断した。しばらくすると、略奪があった。まぁ「粛慎人の仕業だろう」となり、粛慎人はもっと生活に厳しいところへと追い出された。そこで汚い水を飲んで、彼らの半数は死んだ。その屍体を葬った場所が「粛慎隈(ミシハセノクマ))」と呼ばれる岩穴となったのですね。

蝦夷ではないか?ともされますが、蝦夷はすでに融和しているんですよね。古くはヤマトタケルの時代に蝦夷は連れてこられて、中国地方・四国地方では「佐伯」という名前で名士です。安芸の国造は「佐伯」ですからね。異民族だからって、必ずしも虐げられるわけじゃないし、蝦夷とはおそらく取引は活発だった筈です。

個人的には、中国東北部の異民族だったのだと思います。だから融和が一切出来なかったし、突然の報告で記述された。そのくらいの事件だった。

同時代に中国東北部で政変か何かがあったんじゃないかとも。
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