百合野塞の攻防

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欽明天皇(五十九)百合野塞の攻防

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現代語訳

(即位14年)冬10月20日。百済の王子の余昌(ヨシャウ)…
明王(メイオウ)の子で威德王(イトクオウ)です。

国中のすべての兵士を興して高麗国へ行き、百合野塞(ユリノノソコ=黄海道黄州の蒜山?)を築いて、軍士の中に寝て食べるものもいた。この夕方のこと、遥か遠くを観覧すると、鉅野墳腴(オオノウグモチコエ=野っ原に盛り上がったところがある)、平原瀰迤(ナガキハラヒロクノビ=平原がどこまでも伸びる)の中に、人の足跡がマレですが見え、犬の声が聞こえていませんでした。突然、そしてたちまちに、鼓と笛の声(オト)が聞こえました。余昌は驚いて、鼓を打って応えました。夜通し、固く守りました。仄暗い時間に起きて、広野の中を見ると、青山のように旗が満ちていました。夜が明けて、頸鎧(アカノヘノヨロイ=頸部を守る鎧)を身につけた者が一騎、鐃(クスビ=銅鑼のこと)を付けた者が二騎…
鐃の字は未詳です。

豹(ナカツカミ=動物の豹のこと)の尾を差した者が二騎、あわせて5騎が、連なって到着して言いました。
「小児(ワラワ)たちが言った。
『吾が野の中に客人が居る』と。
どうして迎えて、礼をしないでいようか?
わたしと礼をもって問い答える者の姓名と年齢と位を早く知りたいものだ」
余昌は答えて言いました。
「姓は同姓(ヒトツウジ)、位は杆率(カンソチ)、年は29歳」
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解説

百済は当時、新羅に城を奪われていて、百済がこの当時、高麗と土地が接していたか?という疑問があるのですが、わたしは朝鮮半島がそもそも「そんなに発展していなかった」じゃないかと疑っているので、そこいらへんは問題無し。ようは、現代のように人口が多ければ、「ここからが新羅でここからが百済」と言えるのだけど、人口密度が低いならば、フェンスを立てられる訳じゃないし、国境なんて有って無いようなものです。そこを抜けて高麗の土地に要塞を立てたとしても、まぁ、不思議ではない。それと史実かどうかは別問題ですが。
同姓
三国史記を読んでも百済の王は高句麗(高麗)の王家から出ているとしていて、高麗と百済は「同姓」です。同じ姓を名乗っていたわけです。ちなみに、「扶余」が姓です。
戦争のあり方
突然、高麗の土地へとやってきた百済。そこに要塞を立てて、立てこもるのです。その侵入を知った高麗は、夜のうちに取り囲みはしたものの、「礼」を失することから、夜のうちは戦争は仕掛けず、夜が明けてから、まずは「挨拶」から始めた訳です。非常に礼儀正しい。

この後で高麗は百済に戦争で負けるのですが、問題は、高麗と百済には「文化の違いがある」というところです。高麗と百済は「同姓」なのですから、文化の根本は同じ筈なんですよ。ところが戦争への取り組み方が全然ちがう。どーしてなんでしょうか。

まぁ、百済は大陸由来の文化では無い、ということなんでしょう。
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原文

冬十月庚寅朔己酉、百濟王子餘昌(明王子、威德王也)、悉發國中兵、向高麗國、築百合野塞、眠食軍士。是夕觀覽、鉅野墳腴、平原瀰迤、人跡罕見、犬聲蔑聞。俄而儵忽之際、聞鼓吹之聲。餘昌乃大驚、打鼓相應、通夜固守。凌晨起見曠野之中、覆如靑山、旌旗充滿。會明有着頸鎧者一騎、插鐃者鐃字未詳二騎、珥豹尾者二騎、幷五騎、連轡到來問曰「少兒等言、於吾野中客人有在、何得不迎禮也。今欲早知、與吾可以禮問答者、姓名年位。」餘昌對曰「姓是同姓、位是杆率、年廿九矣。」
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