渟中倉太珠敷尊の立太子・百済の使者は筑紫へ

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欽明天皇(六十一)渟中倉太珠敷尊の立太子・百済の使者は筑紫へ

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原文

十五年春正月戊子朔甲午、立皇子渟中倉太珠敷尊、爲皇太子。丙申、百濟遣中部木刕施德文次・前部施德曰佐分屋等於筑紫、諮內臣・佐伯連等曰「德率次酒・杆率塞敦等、以去年閏月四日到來云、臣等臣等者謂內臣也以來年正月到。如此噵而未審、來不也、又軍數幾何。願聞若干、預治營壁。」別諮「方聞、奉可畏天皇之詔、來詣筑紫、看送賜軍。聞之歡喜、無能比者。此年之役甚危於前、願遣賜軍使逮正月。」於是、內臣奉勅而答報曰「卽令遣助軍數一千・馬一百匹・船卌隻。」

現代語訳

即位15年春1月7日。皇子の渟中倉太珠敷尊(ヌナクラノフトタマシキノミコト=敏達天皇)を立てて、皇太子としました。

1月9日。百済は中部木刕施德文次(チウホウモクラセトクモンシ)・前部施德曰佐分屋(ゼンホウセトクオサブンオク)たちを筑紫に派遣して、内臣(ウチノオミ)と佐伯連(サエキノムラジ)たちに言いました。
「德率次酒(トクソチシシュ)・杆率塞敦(カンソチソクトン)たちは去年、閏月4日に到着して言いました。
『臣たち…
ここでの臣たちは内臣をいいます。

は来年の正月(ムツキ=1月)に到着します』
そうは言いましたが訝しく思っています。来るのかどうか? また、軍の数は幾ばくか? 願わくば、その若干(ソコラ)を聞いて、あらかじめ営壁(イホリソコ)を作らせようと思っているのです」
別に言いました。
「可畏天皇(カシコキスメラミコト)の詔(ミコトノリ)を受け賜って、筑紫に詣でて、頂いた軍を見送るということを聞きました。これを聞いて、比べるものの無いくらいに、歓喜しました。今年の役(エダチ=戦役)は、とても以前のそれより危険です。願わくば、頂いた軍を派遣して、正月に到着するようにしてください」
それで内臣は勅(ミコトノリ)を受け賜って、報告として応えました。
「助けの軍の数は1000、馬は100匹、船40隻を派遣しよう」
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解説

渟中倉太珠敷尊
ヌナクラの「ヌ」はヒスイのことではないか?と言われています。ヒスイで有名な糸魚川市の姫川は昔は「沼名河」と呼ばれていました。そう考えると、「太珠敷(フトタマシキ)」もなんとなく繋がりますよね。ヒスイのデッカい玉が敷き詰められた…ということは相当に豊かだってことです。
百済と日本
徐々にきな臭くなる朝鮮半島。百済はどうしても日本の援軍を必要としているよう。単独じゃ勝てないんでしょうね。そこで1月に使者を送って「援軍を!」と要請して、「1月に到着するようにしてもらえませんかね?」というのは厚かましいを通り越して妙。これに関しては「正月」を「五月」と書き間違えたのではないかと言われています。
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