更荒郡の鸕鷀野邑の新羅人の先祖

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欽明天皇(八十)更荒郡の鸕鷀野邑の新羅人の先祖

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現代語訳

(即位23年)秋7月1日。新羅は死者を派遣して調賦(ミツキ=税)を献上しました。その使者は新羅が任那を滅ぼしたと知ると、国恩(ミカドノメグミ)に背いたことを恥ずかしく思い、あえて帰ろうと請願しませんでした。そのまま留まり、本土に帰りませんでした。それは国家(=新羅のこと)の百姓も同じでした。今の河内国の更荒郡(サララノコオリ=現在の大阪府北河内郡四条町・大東市西半・寝屋川市西半の地域)の鸕鷀野邑(ウノノサト)の新羅人の先祖です。
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解説

新羅が任那の官家を滅ぼしたのが即位23年春1月。それで新羅が使者を送ったこのページが即位23年秋7月。日本は新羅に朝鮮半島の直轄地を滅ぼされた。にもかかわらず、半年後に使者を送ってきた。それで「新羅が任那を滅ぼしたことを知って…」とあります。この記述が本当だとすると、新羅の使者は新羅が任那の官家を滅ぼしたことを知らなかったことになりますよね。

これは妙です。

可能性としては無論、この日本書紀の記述が嘘という可能性もあります。何かの間違い。でも、それはちょっと無いと思うのですよ。もしも、ここいら辺の記述が嘘だというのならば、もうちょっと辻褄を合わせるでしょう。仮に記述が嘘であっても、戦争をした国が半年後に使者を送って来て、しかもその使者が自国の侵略を知らないということが「十分ありうる」と考えるだけの状況だったハズなんです。
新羅は全然発展していなかったんじゃ?
わたしは新羅ってのは全然、発展してなかったんじゃ無いか?と思ってるんですよね。国という体裁が整っていなかった。だから新羅の戦争を使者が知らない、ということが全く不思議じゃなかった。例えば、田舎の小さな店なら店主に注文して、店に品物を取りに行っても、店員しか居ない時、店主から店員への情報伝達がうまくいってなくて、話が通じないとかそういうことありませんか? それが新羅では当たり前だった。

そういうことを言うと、日本はそんな小さな国に負けたってことになるのですよね。でも、それは十分ありうるのですよ。それは日本が「死の穢れ」を嫌って、軍を毛嫌いしていたからです。現在の左翼が自衛隊を否定するのと同じです。そこで蘇我稲目は穢れの概念のない仏教を取り入れて国を強化しようとした。まだ仏教は入ってきていないので、日本人は軍を嫌っています(仏教が正式に入るのは聖徳太子の時代)。これでは軍隊を編成できない。だから百済救援はなかなか巧くいかなかったのでしょう。

だから新羅は多少の軍隊で任那を落とすことが出来た。
これは十分ありうる話です。
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原文

秋七月己巳朔、新羅遣使獻調賦。其使人、知新羅滅任那、恥背国恩、不敢請罷。遂留、不歸本土。例同国家百姓、今河內国更荒郡鸕鷀野邑新羅人之先也。
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