烏の羽に書いた高麗の国書を王辰爾は読む

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敏達天皇(二)烏の羽に書いた高麗の国書を王辰爾は読む

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原文

五月壬寅朔、天皇問皇子與大臣曰、高麗使人、今何在。大臣奉對曰、在於相樂館。天皇聞之、傷惻極甚、愀然而歎曰「悲哉、此使人等、名既奏聞於先考天皇矣。」乃遣群臣於相樂館、檢錄所獻調物令送京師。丙辰、天皇、執高麗表䟽、授於大臣、召聚諸史令讀解之。是時、諸史、於三日內皆不能讀。爰有船史祖王辰爾、能奉讀釋。由是、天皇與大臣倶爲讚美曰「勤乎辰爾、懿哉辰爾。汝、若不愛於學、誰能讀解。宜從今始近侍殿中。」既而、詔東西諸史曰「汝等、所習之業、何故不就。汝等雖衆、不及辰爾。」又高麗上表䟽、書于烏羽。字、隨羽黑、既無識者。辰爾、乃蒸羽於飯氣、以帛印羽、悉寫其字。朝庭悉之異。
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現代語訳

(即位1年)5月1日。敏達天皇は皇子と大臣に問いて言いました。
「高麗の使者は今どこにいるのか?」
大臣は答えて言いました。
相楽(サガラカ)の館(ムロツミ)にいます」
天皇は聞いて、とても心を痛めました。そして悲しみ憂いて、嘆いて言いました。
「悲しいなぁ。この使者たちの名前はすでに前の亡くなった天皇(=欽明天皇)に聞こえているのに」
群臣(マヘツキミタチ=臣下たち)を相楽の館に派遣して、高麗の使者が献上した調物(ミツキモノ=献上の品)を検閲して記録して、京師(ミヤコ=ここでは大和)に送らせました。

5月15日。天皇は高麗の表䟽(フミ=国書)を大臣に授けました。もろもろの史(フビト=記述する人)を呼び寄せ集めて、それを読み解かせました。このとき、もろもろの史は3日のうちに読むことができませんでした。そこに船史(フネノフビト)の祖先の王辰爾(オウジンニ)がいて、読み解き、天皇に奉りました。それで天皇と大臣がともに、讃美して言いました。
「よく大仕事を務めてくれたな、辰爾(ジンニ)。良いことだ、辰爾。お前がもしも学ぶことを好み愛していなかったら、誰が読み解くことができただろうか。今から、宮殿の中に仕えるのだ」
それで東西(ヤマトカウチ)のもろもろの史に詔(ミコトノリ)して言いました。
「お前たちが習った業(ワザ)が、どうしてか成果を出さなかった。お前たちは多くいるといっても、辰爾に及ばない」
高麗の献上した表䟽(フミ=国書)は烏の羽に書いてありました。その字は黒いままで、だれも分かりませんでした。辰爾は羽を飯の気(ケ=蒸気のこと)で蒸して、帛(ネリキヌ=柔らかくした上質な絹)に羽で印を押して、すべてのその文字を写しました。朝廷は不思議に思いました。
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解説

高麗の使者は欽明天皇即位31年に船で越国に流れ着いたとされる使者です。越国の道君は「自分が天皇なんだよね」と嘘をついていて、一悶着。結局、本物の天皇が用意した近江の相楽の館に滞在させていました。

ところが欽明天皇が即位32年4月に死亡。この事情を知らないでいた「高麗の使者」を敏達天皇はかわいそうに、と思ったようです。

それで高麗の使者が持っていた献上品をチェックして、国書を得ました。ところがこの国書が「あぶりだし」になっていて、その謎を解いたのが王辰爾(オウジンニ)だったと。


王辰爾(オウジンニ)は蘇我稲目が「船の管理をする人」として連れてきた朝鮮人。日本人は穢れを嫌ったために、獣の毛でできた筆を使えない。王辰爾は朝鮮人だから穢れの概念がなく、筆が使えたので、船の数を管理する役職についた。

蘇我稲目というか蘇我家は、日本の「穢れという概念」が発展を妨げていると思ったのでしょう。仏教には穢れの概念が無いから仏教を信仰すれば筆が使える。稲目は死んでしまいましたが、蘇我馬子はこの後、仏教を取り入れるよう働きかけることになります。
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