菟道皇女と池辺皇子

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敏達天皇(十三)菟道皇女と池辺皇子

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現代語訳

即位7年春3月5日。菟道皇女(ウジノヒメミコ=敏達天皇の娘で菟道磯津貝皇女)を伊勢の祀(マツリ)に仕えさせました。すぐに池辺皇子に侵されました。事件が明らかになって解任になりました。

即位8年冬10月。新羅が枳叱政奈末(キシサナマ)を派遣して調(ミツキ=税)を献上し、あわせて仏像を送りました。

即位9年夏6月。新羅は安刀奈末(アトナマ)・失消奈末(シショウナマ)を派遣して調(ミツキ)を献上しました。日本はそれを納めず、帰しました。
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解説

池辺皇子
敏達天皇の娘の菟道皇女を犯した人物である池辺皇子。ここ以外ではこの名前では出てきませんが、「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」によると、用明天皇の諱(イミナ)が池辺皇子だったとあります。

つまりこの池辺皇子はのちの用明天皇だった。元興寺伽藍縁起并流記資財帳にしか書いてないので、疑う人も多いのですが、用明天皇の名誉に関わることですから、日本書紀では書かなかった、ただそれだけかもしれません。

ちなみに用明天皇の宮は「磐余池辺雙槻宮」で「池辺」が思い切り入っていて、まーーー黒でしょう。

ところで用明天皇はおそらく最初に仏教を取り入れた「天皇」です。穢れを嫌う伊勢の少女との恋を阻まれたことが、穢れの概念のない仏教への傾倒だとしたら?……ま、ロマンチックですけど、妄想ですよ。
なぜ調を断ったか
即位9年新羅の調を日本は納めず、突き返しています。この理由は分かりません。
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原文

七年春三月戊辰朔壬申、以菟道皇女侍伊勢祠。卽姧池邊皇子、事顯而解。八年冬十月、新羅遣枳叱政奈末、進調、幷送佛像。九年夏六月、新羅遣安刀奈末・失消奈末、進調、不納以還之。
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