宅部皇子と穴穂部皇子を誅殺

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崇峻天皇(二)宅部皇子と穴穂部皇子を誅殺

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現代語訳

(用明天皇即位2年)6月7日。蘇我馬子宿禰(ソガノウマコノスクネ)たちは炊屋姫尊(カシキヤヒメノミコト=のちの推古天皇)を奉じて、佐伯連丹経手(サエキノムラジニフテ)・土師連磐村(ハジノムラジイワムラ)・的臣真嚙(イクハノオミマクイ)に詔(ミコトノリ)して言いました。
「おまえたち。兵を整えて速やかに行き、穴穂部皇子と宅部皇子(ヤカベノミコ)を誅殺しろ」
この日の夜中に、佐伯連丹経手たちは穴穂部皇子の宮を囲みました。衛士(イクサビト=衛兵)はまず、楼(タカドノ)の上に登って、穴穂部皇子の肩を撃ちました。皇子は楼の下に落ちて、偏(カタハラ=かたわら)の室(ヤ=家屋)に走って逃げて入りました。衛士たちは、火をつけて誅殺しました。
8日に宅部皇子を誅殺しました。
宅部皇子は檜隈天皇(ヒノクマノスメラミコト=宣化天皇)の子で、上女王の父です。詳細は分かりません。

穴穂部皇子と仲が良かった。だから誅殺しました。
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解説

宅部皇子とは?
檜隈天皇が宣化天皇(在位536ー539)とすると、用明天皇(在位585ー587)の時代に、宣化天皇の子供が居る可能性は…まぁ、不可能ではないですね。宣化天皇の晩年に生まれて、この時代では50歳とか…無理じゃない。この記述が正しいとして、宅部皇子(父が宣化天皇)は穴穂部皇子(父が欽明天皇)とは歳の離れた、いとこ関係(宣化天皇と欽明天皇は腹違いの兄弟)になります。

ただ、宅部皇子という名前が日本書紀に見られない。

また「上女王」もよくわからない。よってこの注釈自体を間違いとすることもありますが、そもそも宣化天皇というのが、フワフワしているのですよ。武烈天皇で後継者がいなくなり、そこで仕方なく、越国から遠い親戚の「継体天皇」を連れてきた。その子の一人が宣化天皇なのですが、継体天皇は百歩譲って応神天皇の5代孫で、ギリギリセーフなのですが、6代目となると、これはほぼ他人というカテゴリーになります。それで宣化天皇というのが、そもそも、認められていなかったのではないか?と。
宣化天皇の次の欽明天皇は同じ継体天皇の子でも、母親は手白香皇女で「まっとうな血統の天皇」です。だから宣化天皇の記述が曖昧なのは、そういうことを考慮するとしょうがないのかなと思います。
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原文

六月甲辰朔庚戌、蘇我馬子宿禰等、奉炊屋姫尊、詔佐伯連丹經手・土師連磐村・的臣眞嚙曰「汝等、嚴兵速往、誅殺穴穗部皇子與宅部皇子。」是日夜半、佐伯連丹經手等、圍穴穗部皇子宮。於是、衞士先登樓上、擊穴穗部皇子肩。皇子落於樓下走入偏室、衞士等舉燭而誅。辛亥、誅宅部皇子(宅部皇子、檜隈天皇之子、上女王之父也、未詳。)善穴穗部皇子、故誅。
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