渋河での守屋と馬子の戦い

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崇峻天皇(四)渋河での守屋と馬子の戦い

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現代語訳

(用明天皇即位2年)秋7月。蘇我馬子宿禰大臣(ソガウマコノスクネノオオオミ)はもろもろの皇子と群臣に勧めて、物部守屋大連(モノノベモリヤオオムラジ)を滅ぼそうと謀りました。
泊瀬部皇子(ハツセベノミコ=崇峻天皇)・竹田皇子(タケダノミコ)・廐戸皇子(ウマヤトノミコ=聖徳太子)・難波皇子(ナニワノミコ)・春日皇子(カスガノミコ)・蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰(キノオマロノスクネ)・巨勢臣比良夫(コセノオミヒラブ)・膳臣賀拕夫(カシワデノオミカタブ)・葛城臣烏那羅(カツラギノオミオナラ)は軍旅(イクサ=軍隊)を率いて、進んで大連を討ちました。
大伴連嚙(オオトモノムラジクイ)・阿倍臣人(アベノオミヒト)・平群臣神手(ヘグリノオミカムテ)・坂本臣糠手(サカモトノオミアラテ)・春日臣(カスガノオミ)…
春日臣の名前は分かりません。

軍兵を率いて、志紀郡(シキノコオリ=河内国の郡名)から渋河(シブカワ=河内国渋川郡=現在の大阪府布施市の物部守屋の家)の家に到着しました。大連(=物部守屋)は、自ら子弟(ヤカラ)と奴隷軍とを率いて、稲城(イナキ)を築いて戦いました。大連は衣摺(キヌスリ=河内国渋川郡の地名=現在の大阪府布施市衣摺)の朴(エノキ=ホオの木)の枝の股に登って、見下ろし見て射ち、雨のようでした。その軍は強く、勢いづいていて、家に満ち、野にあふれていました。皇子たちの軍と群臣の衆(イクサ=兵)は怯えていて弱く、恐怖に駆られて、三度退きました。
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解説

組織の形式
組織で主導権を取っていたのは蘇我馬子ですが、蘇我馬子はあくまで「提案」して、それについて話し合って、決まった通りに行動するという形を取っています。これが史実かどうかはともかく、これが「正しい」ことだという感覚があったはずです。

これはアマテラスが天安川で八百万の神々と話し合って決める過程と似ています。
名前の順番
おそらく名前の順番が、「勢力の順」です。つまり、蘇我馬子はあくまで皇子の下です。また聖徳太子(厩戸皇子)よりも竹田皇子の方が上になっています。
物部氏の強さ
物部は宗教関係の氏族とされます。日本人にとって「モノ」とは「物体」であり「霊(モノ)」でもあります。物部のモノはこの両方をあらわしています。兵器もモノです。物部はかなり強い兵力を持っていました。また、こちらの方が大事だと思うのですが、霊体を司り、「祟り」も担当していたのではないかと思います。

日本人は死の穢れと祟りを恐れます。戦争があれば死者が生まれ、その死者の未練が祟りを生みます。日本人は戦争を…兵隊を嫌うあまりに平安時代には軍隊を廃止してしまいます。

そんな日本人にとって、「兵器(モノ)」を持ち、「霊(モノ)」を司る「物部」という氏族は強い勢力を持っていたはずです。少なくとも敵対したくない。しかし、これに対抗する人物が現れました。それが蘇我です。

蘇我は「穢れも祟りもない仏教」を奉じて、あらたな日本を切り開こうとしたのでしょう。
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原文

秋七月、蘇我馬子宿禰大臣、勸諸皇子與群臣、謀滅物部守屋大連。泊瀬部皇子・竹田皇子・廐戸皇子・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀拕夫・葛城臣烏那羅、倶率軍旅、進討大連。大伴連嚙・阿倍臣人・平群臣神手・坂本臣糠手・春日臣(闕名字)倶率軍兵、從志紀郡到澁河家。大連、親率子弟與奴軍、築稻城而戰。於是、大連昇衣揩朴枝間、臨射如雨、其軍强盛、塡家溢野。皇子等軍與群臣衆、怯弱恐怖、三
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