東国の調・東漢直駒の天皇暗殺

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崇峻天皇(十七)東国の調・東漢直駒の天皇暗殺

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現代語訳

(即位5年)11月3日。馬子宿禰(ウマコノスクネ)は群臣(マヘツキミタチ=臣下たち)を騙して言いました。
「今日、東国の調(ミツキ=税)を献上する」
すぐに東漢直駒(ヤマトノアヤノアタイコマ)に天皇を殺させました。
ある本によると、東漢直駒は東漢直磐井(ヤマトノアヤノアタイイワイ)の子だと言います。

この日に天皇を倉梯岡陵(クラハシノオカノミサザキ)に葬りました。
ある本によると、大伴嬪(オオトノモノミメ)の小手子(コテコ)が寵愛が衰えたことを恨んで、人を蘇我馬子宿禰の元へと使者として送って言いました。
「この頃、山猪(イノシシ)を献上したことがありました。天皇はその猪を指差して詔(ミコトノリ)して言ったのです。
『猪の頸を斬るように、いつか朕が思う人を斬ろう』と。
また内裏(オオウチ)で、たくさんの兵仗(ツワモノ=兵器)を作っています」
それで馬子宿禰は聞いて驚いたといいます。
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解説

天皇の暗殺
前代未聞の事件発生。臣下である蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺してしまいます。しかし、どうして殺されたのか? 読み返しても殺される理由って一つしかないんですよね。というのも崇峻天皇の段はほとんど蘇我馬子の活動だけなんです。その中で崇峻天皇が能動的に活動したのはたった一つ。それは「任那再建のために軍を筑紫へと移動させたこと」だけ。

任那再建は父である欽明天皇の遺言。だから崇峻天皇が積極的になるのは仕方がないのです。しかし、臣下たちは乗り気ではなかった…のではないかと思います。だから蘇我馬子に殺された。崇峻天皇の暗殺後、国内は大した混乱にはなっていません。それは崇峻天皇暗殺は臣下の暗黙の了解があったからではないでしょうか。
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原文

十一月癸卯朔乙巳、馬子宿禰、詐於群臣曰「今日、進東国之調。」乃使東漢直駒弑于天皇。(或本云、東漢直駒、東漢直磐井子也。)是日、葬天皇于倉梯岡陵。(或本云、大伴嬪小手子、恨寵之衰、使人於蘇我馬子宿禰曰「頃者有獻山猪、天皇指猪而詔曰、如斷猪頸何時斷朕思人。且於內裏大作兵仗。」於是、馬子宿禰聽而驚之。)
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