斑鳩宮と耳梨行宮・新羅のスパイの迦摩多

MENU
TOP>推古天皇(日本書紀)>推古天皇(十一)斑鳩宮と耳梨行宮・新羅のスパイの迦摩多

推古天皇(十一)斑鳩宮と耳梨行宮・新羅のスパイの迦摩多

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

現代語訳

即位9年春2月。皇太子(=厩戸皇子の事)は初めて宮室(ミヤ)を斑鳩(イカルガ)に建てました。

3月5日。大伴連囓(オオトモノムラジクイ)を高麗に派遣して、坂本臣糠手(サカモトノオミアラテ)を百済に派遣して詔(ミコトノリ)して言いました。
「速やかに任那を救え」
夏5月。天皇は耳梨(ミミナシ=現在の奈良県橿原市木原町)の行宮(カリミヤ)にいました。この時、大雨(ヒサメ)が降りました。河の水は漂い、広がり、宮庭(オオミヤ)に満ちました。
秋9月8日。新羅の間諜(ウカミ=スパイ)の者の迦摩多(カマタ)が対馬に到着しました。すぐに捕まえて、上野(カミツケノクニ)に流しました。
冬11月5日。新羅を攻めることを話し合いました。
Pre<<<  >>>Next 
スポンサードリンク

解説

皇太子として別格な厩戸皇子
厩戸皇子(聖徳太子)は、宮を建て、摂政という形で、実務を行いました。しかし、「実務が行えて」「宮を建てる」ならば、なぜ「天皇」にならなかったのか。

この後、聖徳太子の弟の「来目皇子」が軍を率いて新羅征伐へと向かいます。結局、途中で引き返すのですが、それはともかく、この征伐も聖徳太子の主導で行われたのは間違いないでしょう。

聖徳太子が天皇とならなかったのは、「新しい日本」を思い描いていたからじゃないでしょうか。当時の日本は穢れを嫌うあまり「兵」と「筆」を避けたため、国の発展に限界が生じた。だから穢れの概念のない仏教を取り入れることで、「新しい日本」を模索したのではないかと思うのです。

筆で書かれた経典を読み、穢れにまみれた聖徳太子では、清らかでないといけない天皇にはなれない。そこで、神道のトップ「天皇」と、仏教のトップという意味で「法王」を、「天皇+摂政」という形で体現しようとしたのではないかと思うのです。これで、日本は文字を自由に書けるようになり、兵も動かせる。それが新しい日本だったのではないかと。
スポンサードリンク

原文

九年春二月、皇太子初興宮室于斑鳩。三月甲申朔戊子、遣大伴連囓于高麗、遺坂本臣糠手于百濟、以詔之曰、急救任那。夏五月、天皇居于耳梨行宮。是時大雨、河水漂蕩、滿于宮庭。秋九月辛巳朔戊子、新羅之間諜者迦摩多到對馬、則捕以貢之、流上野。冬十一月庚辰朔甲申、議攻新羅。
Pre<<<  >>>Next 
スポンサードリンク

SNSボタン

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

ページ一覧

編集