小野臣妹子を大唐へ派遣

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推古天皇(二十五)小野臣妹子を大唐へ派遣

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現代語訳

(即位15年)秋7月3日。大礼(ダイライ)の小野臣妹子(オノノオミイモコ)を大唐(モロコシ)に派遣しました。鞍作福利(クラツクリノフクリ)を通事(オサ=通訳)としました。

この年の冬に倭国に高市池(タケチノイケ)・藤原池(フジワラノイケ)・肩岡池(カタオカノイケ)・菅原池(スガワラノイケ)を作りました。山背国に大溝(オオウナデ=水路)を栗隈(クルクマ)に掘りました。また河内国に戸苅池(トカリノイケ)・依網池(ヨサミノイケ)を作りました。また国ごとに屯倉(ミヤケ=直轄地)を置きました。
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解説

小野妹子
小野妹子が派遣されたのは「大唐」ではなく、実際は「隋」。このあたりは「唐辛子」が唐から来たものではないように、「唐」という言葉がザックリとした「外国」とか「中国」という意味を持っていたのかもしれない。

この小野妹子の遣隋使は隋書によると有名な「日出ずる処の天子」「日沒する処の天子」の件だと思われます。ただし、隋書によると使者を派遣したのは「王、多利思比孤(タリシヒコ)」となっている。推古天皇が女性であるのに「タリシヒコ」とはどういうことやら。

個人的には「女王だと知られなくなかった」という仮説と、「タリシヒコ」というのが名前ではなく「地位」の名前だったという仮説を持っています。ちなみに推古天皇の次が舒明天皇で舒明天皇の和風諡号という「死後に送られる名前」が息長足日広額天皇(オキナガタラシヒヒロヌカノスメラミコト)で、神功皇后が「オキナガタラシヒメ」であることを考えると「タリシヒコ」は、もしかすると中国にとって名前ではなかったのかもしれないです。
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原文

秋七月戊申朔庚戌、大禮小野臣妹子遣於大唐、以鞍作福利爲通事。是歲冬、於倭国作高市池・藤原池・肩岡池・菅原池、山背国掘大溝於栗隈、且河內国作戸苅池・依網池、亦毎国置屯倉。
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