筑紫の大宰・肥後の葦北津に百済人が漂着

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推古天皇(三十)筑紫の大宰・肥後の葦北津に百済人が漂着

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現代語訳

即位17年夏4月4日。筑紫の大宰(オオミコトモチノツカサ)が申し上げて言いました。
「百済の僧の道欣(ドウコン)と恵弥(エミ)を首長として10人と、俗人75人が肥後国の葦北津(アシキタノツ)に宿泊しました」
この時、難波吉士徳摩呂(ナニワノキシトコマロ)と船史龍(フネノフビトタツ)を派遣して、問わせて言いました。
「何をしに来たのか?」
答えて言いました。
「百済の王に命じられて呉国に派遣されました。その国に乱があって、入ることが出来ませんでした。それで本郷(モトノクニ)に帰りました。すると暴風に会って、海の中を漂流していました。すると大きな幸(サチ=ここでは幸運)があって聖帝(キミ)の辺境に泊まっているのです。歓喜しています」
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解説

意味不明だが
百済に王に命じられて呉国…つまり中国南部に行こうとしたら、乱があって入られなかった。それで百済に帰ってきたら、暴風に流されて肥後国…つまり熊本県に流れ着いた…うーん。
地理的におかしい。百済から流されて熊本に流れ着くことはありえない。仮にこの文章が「正しい」とすると「中国南部から、海流に流されて熊本に流れ着いた」と考えるべきでしょうね。

もしくは「嘘」。
単に百済から密出国しただけの人が言い訳に言った言葉がコレってだけか。次のページでは、「本国に帰るのを拒否」していますからね。
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原文

十七年夏四月丁酉朔庚子、筑紫大宰奏上言「百濟僧道欣・惠彌爲首一十人・俗七十五人、泊于肥後國葦北津。」是時、遣難波吉士德摩呂・船史龍、以問之曰、何來也。對曰「百濟王命以遣於吳國、其國有亂不得入。更返於本鄕、忽逢暴風、漂蕩海中。然、有大幸而泊于聖帝之邊境、以歡喜。」
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