曇徵と法定・彩色と紙墨と碾磑

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推古天皇(三十二)曇徵と法定・彩色と紙墨と碾磑

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原文

十八年春三月、高麗王貢上僧曇徵・法定。曇徵、知五經、且能作彩色及紙墨、幷造碾磑。蓋造碾磑、始于是時歟。秋七月、新羅使人沙㖨部奈末竹世士、與任那使人㖨部大舍首智買、到于筑紫。九月、遣使、召新羅任那使人。

現代語訳

即位18年春3月。高麗の王は僧の曇徵(ドンチョウ)・法定(ホウジョウ)を献上しました。曇徵は五経(=儒教の本)を知っていました。また彩色(シミノモノノイロ=絵の具)と紙墨(カミスミ=紙と墨)を作り、碾磑(ミズウス=水力を利用した臼)を作ることが出来ました。碾磑(ミズウス)を作るのはこの時に始まったのではないか?

秋7月に新羅の使者の沙㖨部奈末竹世士(サタクホウナマチクセイシ)は任那の使者の㖨部大舍首智買(タクホウタサスチバイ)が筑紫に到着しました。
9月に使者を派遣して新羅と任那の使者を呼び寄せました。
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解説

高麗から僧が献上されました。その僧は五経という儒教の知識があり、絵の具と紙と墨と、水力で動く臼を作る技術があったそうです。しかし、紙と墨がこの時「初めて」伝わったというのは考えにくい。この時に伝わったのは、あくまで「新しい紙の製法」程度だろうと思われます。ただし「紙と墨」に関する記述はこれが最初。

水力で動く臼は結局、日本では広がらなかったのですね。だからミズウスと聞いてもピンと来ない。いや、それよりも、14世紀に成立した李氏朝鮮では「木」を曲げる技術がなく、水車も桶も樽も作れませんでした。そんな国に本当に碾磑(ミズウス)の技術があったのかとちょっと不思議。もちろん、高麗と李氏朝鮮が、民族も血統も文化も全然違う可能性は十分ありますから、技術が継承されていなくても問題ないのですが。
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