推古天皇(三十三)新羅と任那の使者の歓待と儀式

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推古天皇(三十三)新羅と任那の使者の歓待と儀式

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原文

冬十月己丑朔丙申、新羅任那使人臻於京。

是日、命額田部連比羅夫爲迎新羅客莊馬之長、以膳臣大伴爲迎任那客莊馬之長、卽安置阿斗河邊館。丁酉、客等拜朝庭。於是、命秦造河勝・土部連菟爲新羅導者、以間人連鹽蓋・阿閉臣大籠爲任那導者、共引以自南門入之、立于庭中。時、大伴咋連・蘇我豊浦蝦兩臣・坂本糠手臣・阿倍鳥子臣、共自位起之進伏于庭。於是、兩国客等各再拜、以奏使旨。乃四大夫、起進啓於大臣、時大臣自位起、立廳前而聽焉。既而賜祿諸客、各有差。

乙巳、饗使人等於朝、以河內漢直贄爲新羅共食者、錦織首久僧爲任那共食者。

辛亥、客等禮畢、以歸焉。
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現代語訳

(即位18年)冬10月8日。新羅と任那の使者は京(ミヤコ=大和のこと)に到着しました。この日に額田部連比羅夫(ヌカタベノムラジヒラブ)に命じて、新羅の客人を迎える莊馬(カザリウマ=飾馬)の長としました。膳臣大伴(カシワデノオミオオトモ)を任那の客人を迎える莊馬(カザリウマ=飾馬)の長としました。阿斗(アト=大和国城下郡阿刀町?)の川辺の館(ムロツミ)に居らせました。
9日。客人たちは朝廷を拝礼しました。秦造河勝(ハタノミヤツコカワカツ)・土部連菟(ハジノムラジウサギ)に命じて、新羅の導者(ミチビキヒト)としました。間人連塩蓋(ハシヒトノムラジシオフタ)・阿閉臣大籠(アヘノオミオオコ)を任那の導者としました。引率して南の門から入り、庭中(オオバ)に立ちました。その時に大伴咋連(オオトモノクイノムラジ)・蘇我豊浦蝦夷臣(ソガノトユラノエミシノオミ)・坂本糠手臣(サカモトノアラテノオミ)・阿倍鳥子臣(アヘノトリコノオミ)はともに所定の位置から出発して、進んで庭に伏せました。二つの国の客人たちはそれぞれ拝礼して、使いの旨(ムネ=目的)を申し上げました。すぐに4人の大夫(マヘツキミ=臣下=大伴咋から阿倍鳥子までの4人)は出発して進んで、大臣に申し上げました。大臣は所定の位置から出発して、庁(マツリゴトドノ)の前に立って聞きました。すでに客人にものを与えていました。それぞれに品がありました。

17日。使者は朝廷で宴会をしました。河内漢直贄(カフチのアヤノアタイニエ)を新羅の共食者(アイタゲヒト=接待をする人)としました。錦織首久僧(ニシコリノオビトクソ)を任那の共食者としました。

23日。客人たちの礼は終わり、帰国しました。
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解説

かなり歓待しているのですが、歓待自体は別にこれ以前からもあるので、どうでもいいのですが、儀式の手順が細かく書かれているのは初めてではないかと。
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