犬上君御田鍬と矢田部造と百済の使者・慧慈の帰国

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推古天皇(四十三)犬上君御田鍬と矢田部造と百済の使者・慧慈の帰国

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原文

廿三年秋九月、犬上君御田鍬・矢田部造、至自大唐。百濟使、則從犬上君而來朝。十一月己丑朔庚寅、饗百濟客。癸卯、高麗僧慧慈歸于国。

現代語訳

即位23年秋9月。犬上君御田鍬(イヌカミノキミミタスキ)・矢田部造(ヤタベノミヤツコ)は大唐(モロコシ)から到着しました。百済の使者が、犬上君に従って来朝しました。

11月2日。百済の客をもてなし、宴会をしました。
15日。高麗の僧の慧慈(エジ)が国に帰りました。

解説

大唐に行った犬上君御田鍬と矢田部造が帰って来たら、百済の使者が付いてきました。これは、つまり日本が百済を経由して中国に行っていた、ということでしょうね。

高麗の僧の慧慈は聖徳太子に仏教を教え、帰化した人物。ところが、ここで高麗に帰国しています。「帰化」ってのは、現在の「帰化」とは意味合いが違うのかもしれません。
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