推古天皇の死・田村皇子と山背大兄王

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推古天皇(六十三)推古天皇の死・田村皇子と山背大兄王

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現代語訳

即位36年春2月27日。天皇は病に伏せました。

3月2日。日蝕で太陽が尽きたことがありました。

(3月)6日。天皇は痛みがひどくなって、忌まわしい事態…つまり死が避けられない状態になりました。すぐに田村皇子(タムラノミコ=後の舒明天皇)を呼び寄せて語って言いました。
「天位(タカミクラ=天皇位)に登り、鴻基(アマツヒツギ=天から任された仕事)を治め、整え、万機(ヨロズノマツリゴト=すべての政治)を治め、国民を養うことは、もとより容易く言うものではない。常に重く捉えるものです。お前は慎しみ、明らかにするのだ。軽々しく言ってはいけない」
その日のうちに、山背大兄(ヤマシロノオオエ=聖徳太子の子)を呼び寄せて教えて言いました。
「お前はまだ未熟ものだ。もし、心に望むものがあっても、やかましく言ってはいけない。必ず、群(マヘツキミタチ=臣下たち)の言葉を待ち、従いなさい」
(3月)7日。天皇は崩御しました。その時、年齢は75歳。南庭(オオバ)に殯(モガリ=遺体を仮に安置すること)しました。
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解説

事情
田村皇子は母親が敏達天皇の娘の糠手姫皇女。父親が同じく敏達天皇の息子の押坂彦人大兄皇子。つまり田村皇子は血統では実に申し分ないわけです。この人物を次の天皇に指名したことは、筋から言えば、問題ないのです。

しかしながら、聖徳太子が皇太子であり、摂政まで行っていましたし、人望も能力も十分ありました。このページでは故人ですが、明らかに「次の天皇は聖徳太子」としていたのです。だから、次の天皇は、聖徳太子の子の山背大兄王で決まりでしょう。また聖徳太子は蘇我の血も引いているのです。聖徳太子は皇族でありつつ蘇我の血を引く。つまり山背大兄王も皇族と蘇我の血を継いでいる。山背大兄王は血統も政治基盤も、何の問題も無い、はずなんです。

田村皇子は蘇我の娘を嫁にもらっていましたから、蘇我の影響は受けるでしょうが、そうは言っても、田村皇子当人はバリバリの皇族。蘇我の血は継いでいません。もしも推古天皇が蘇我の関係者で、蘇我の影響下の人物を選ぶのならば、山背大兄王で良いハズです。
仏教からの揺り戻し?
聖徳太子vs蘇我氏という図があって、聖徳太子を排除したのではないか?とも思います。そういう仮説も成立します。しかし聖徳太子は間違いなく蘇我関係者です。推古天皇・蘇我馬子・聖徳太子は、蘇我の血縁者です。だから対立なんてしない、とは思いませんよ。でも、聖徳太子と蘇我馬子は共同で仕事をしてきたいわば戦友。理由としては弱いのではないかと。

私は全然別のことを考えています。このページではこの三者が全員死ぬことになりました。また、これ以前のページから天変地異が続いていますし、これからも続きます。推古天皇はこう考えたのではないでしょうか。

仏教は失敗だったと。

思えば、最初に仏像を祀ったのが蘇我稲目…馬子の父で推古天皇の祖父にあたる人物です。仏像を祀り、寺を建て、その結果どうなったかというと、疫病が蔓延し民が死んでいきました。そこで寺は廃棄、経典や仏像を捨てることになりました。

仏教は失敗だった。いや、少なくとも仏教は失敗だったんじゃないか?と臣下たちが思っている。その中で、仏教推進の急先鋒だった聖徳太子の子の山背大兄王を天皇にすることは出来なかった。
これが一番、現実的な仮説だと思います。
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原文

卅六年春二月戊寅朔甲辰、天皇臥病。三月丁未朔戊申、日有蝕盡之。壬子、天皇、痛甚之不可諱、則召田村皇子謂之曰「昇天位而經綸鴻基・馭萬機以亭育黎元、本非輙言、恆之所重。故、汝愼以察之、不可輕言。」卽日召山背大兄教之曰「汝肝稚之。若雖心望、而勿諠言。必待群言以宣從。」癸丑、天皇崩之。時年七十五。卽殯於南庭。
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