舒明天皇(十八)高表仁の来日と歓待

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舒明天皇(十八)高表仁の来日と歓待

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現代語訳

即位4年秋8月。大唐(モロコシ=中国)は高表仁(コウヒョウジン)を派遣して三田耜(ミタスキ=犬上御田鍬)を送らせました。ともに対馬に宿泊しました。この時に学問僧の霊雲(リョウウン)・僧旻(ソウミン)と勝鳥養(スグリノトリカイ)、新羅の送使(オクルツカイ)なども従って来ました。

冬10月4日。唐国の使者の高表仁たちは難波津(ナニワノツ)に宿泊しました。すぐに大伴連馬養(オオトモノムラジウマカイ)を派遣して江口(エグチ=現在の大阪中島?)に迎えに行かせました。船は32艘、および鼓・笛・旗織(ハタ)は皆、整い飾られていました。高表仁阿智に告げて言いました。
「天子(モロコシノミカド=ここでは中国の皇帝のこと)の命令を賜っている使者。天皇の朝廷に到着したと聞いて迎えに来ました」
高表仁は答えて言いました。
「風が寒く凄まじい日、船を飾り整えて、迎えてくれたこと、喜び、またかしこまります」
難波吉士小槻(ナニワノキシオツキ)・大河内直矢伏(オオカフチノアタイヤフシ)に命令して導者として館(ムロツミ)の前に到着しました。すぐに伊岐史乙等(イキノフビトオト)・難波吉士八牛(ナニワノキシヤツシ)を派遣して客人たちを引率して館に入らせました。その日に神酒を与えました。
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解説

犬上御田鍬が中国に行ったら、使者の高表仁がやってきて、この使者を歓待するというのがこのページのお話。ところでほとんど同じケースがこれ以前にもありました。小野妹子を中国に送ると、帰ってくるときに裴世清がついてきて、それを歓待したという話が推古天皇の時代にありました。

裴世清の時も、難波津の江口という地名が登場しますし、飾った船もあります。また歓待した氏族も「難波吉士」「大河内直」と被っているものが多いです。この辺りは「中国の使者を歓待する」というのがパターンで会って、深い意味は無いのかもしれません。
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原文

四年秋八月、大唐遣高表仁送三田耜、共泊于對馬。是時、學問僧靈雲・僧旻・及勝鳥養・新羅送使等、從之。冬十月辛亥朔甲寅、唐國使人高表仁等泊于難波津、則遣大伴連馬養迎於江口、船卅二艘及鼓吹旗幟皆具整飾、便告高表仁等曰「聞天子所命之使到于天皇朝、迎之。」時、高表仁對曰「風寒之日、飾整船艘以賜迎之、歡愧也。」於是、令難波吉士小槻・大河內直矢伏爲導者、到干館前。乃遣伊岐史乙等・難波吉士八牛、引客等入於館。卽日、給神酒。
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