舒明天皇(二十)日蝕・大水・岡本宮の火災・大派王の注意

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舒明天皇(二十)日蝕・大水・岡本宮の火災・大派王の注意

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原文

八年春正月壬辰朔、日蝕之。三月、悉劾姧采女者皆罪之。是時、三輪君小鷦鷯、苦其推鞫、刺頸而死。夏五月、霖雨大水。六月、災岡本宮、天皇遷居田中宮。秋七月己丑朔、大派王、謂豊浦大臣曰「群卿及百寮、朝參已懈。自今以後、卯始朝之巳後退之、因以鍾爲節。」然、大臣不從。是歲、大旱、天下飢之。

現代語訳

即位8年春1月1日。日蝕がありました。
3月にすべての采女(ウネメ=氏族が仕えさせた娘)を犯したものを劾(カムガエル=取り調べ)して、皆、罪を問いました。この時に三輪君小鷦鷯(ミワノキミオサザキ)はその罪を問い責められたことを苦しんで、首を刺して死にました。

夏5月。霖雨(ナガメ=長雨)で大水(オオミズ=洪水)がありました。
6月。岡本宮(オカモトノミヤ=舒明天皇がいた所)に火災がありました。天皇は遷都して田中宮(タナカノミヤ=現在の橿原市田中町)に居ます。
秋7月1日。大派王(オオマタノオオキミ=敏達天皇の皇子)は豊浦大臣(トユラノオオオミ=蘇我蝦夷の事)に語って言いました。
「群卿(マヘツキミタチ=臣下たち)と百僚(ツカサツカサ=役人・官僚)は朝参(ミカドマイリ=朝廷に参上すること)を怠っている。今より以後、卯(ウ=朝6時)に始まり、朝廷に参上して、巳(ミ=朝10時)以降に退出するように。鐘を叩いて、節を整えろ」
しかし大臣は従いませんでした。
この年、日照りがあり、天下は飢えました。
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解説

大派王
大派王は敏達天皇の子。母親は春日臣仲君(カスガノオミナカツキミ)の娘の老女子夫人(オミナゴノオオトジ)です。敏達天皇の二人目の皇后が「推古天皇」ですから、大派王は世代としては推古天皇の子と同じが、それよりも高齢です。この時点の年齢は40代か50代じゃないかと。それなりに評価のあった人物だったのでしょう。その進言も蘇我蝦夷は聞かなかった。

そして洪水があり、旱魃があり、また彗星が流れるなど奇妙な兆候が出ています。これらを当時の人は「政治の乱れが、自然に現れている」と考えたハズです。
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