皇極天皇(五)健児の相撲・白い雀・日照り対策の失敗

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皇極天皇(五)健児の相撲・白い雀・日照り対策の失敗

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現代語訳

(即位1年)秋7月9日。客星(マラウトホシ=普段見えないが突然現れる星)が月に入りました。
22日。百済の使者の大佐平(ダイサヘイ=百済の官位)の智積(チシャク)たちと朝廷で宴会をしました。
ある本によると、百済の使者の大佐平智積とその子の達率(ダソチ=百済の官位)…名を漏らして分からない…と恩率軍善(オンソチグンゼン)と言います。

健児(チカラヒト)に命じて、翹岐(ゲウキ=百済の王子)の前で相撲を取らせました。智積たちは宴会が終わり、退出して、翹岐が門を拝みました。
23日。蘇我臣入鹿(ソガノオミイルカ)の豎者(シトベ=少年の従者)が白い雀の子を捕らえました。この日の同じ時に、人が居て、白雀をカゴに入れて、蘇我大臣に送りました。
25日。群臣(マヘツキミタチ=臣下たち)が語り合い、言いました。
「村々の祝部(ハフリベ)の教えのままに、ある時は牛馬を殺して、諸々の社の神を祀り、祈る。ある時はしきりに市を移動させる。ある時は河伯(カワノカミ=河の神)を祈る。全く効果がない」
蘇我大臣(=蘇我蝦夷)は答えて言いました。
「寺々に大乗経典を転読し、祀るできだ。悔過(カイカ=自分の罪を懺悔する儀式)をすることで、仏の説教をしたところで、敬い雨を祈る」
27日。大寺の南の庭に仏菩薩の像と四天王の像を飾り、諸々の層を、屈して請願して、大雲経(ダイウンキョウ)などを読ませました。その時、蘇我大臣は香炉を手にとって、香を焚いて、願を発しました。
28日。小雨が降りました。
29日。雨を祈り、請い願いましたが降りませんでした。それでお経を読むことを止めました。
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解説

日照り
前のページの最後に「6月16日。小雨が無理ました。この月、大いに日照りました。」とあり、このページの最初には、星が月に入るという凶兆が現れました。

日照りが続き7月25日に臣下たちが話し合うわけです。
「祝部が教えるままに、牛馬を殺して祀った。市場を移動させた。河の神を祀ったけども全然効果がない」と。
日本は穢れを恐れる文化です。牛馬を殺して神に捧げるというのは出来るならばやりたくないことです。この牛馬を殺して捧げるというのは「中国の祭祀」です。国内の神のやり方じゃ雨が降らないから、外国のやり方で…ってことです。次の市場の移動というのは、そもそも「市」というのが神の加護によって運営されるもので、この市場の運営する市によって神の機嫌がよかったり悪かったりする、と切羽詰まった当時の人は考えたのだと思います。もしくは「風水的」な考えかもしれません。
次の河伯というのは水神のことなのですが「河伯」というのが中国や朝鮮の水神の名前なんですね。

こうして日照り対策で神に祈りまくったけどうまくいかない。すると蘇我蝦夷が「仏に頼んでみよう」と提案した。しかし、結局雨は降らなかった。

蘇我蝦夷というと、仏教推進派の聖徳太子の子の山背大兄王を抑えて、田村皇子(舒明天皇)をごり押しした張本人です。おそらく、仏教推進を控えるための舒明天皇だったのだと思うのですが、そこに来て「仏教で日照り対策」と提案したのを見ると、相当にヤバイ日照りだったのではないかと思います。
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原文

秋七月甲寅朔壬戌、客星入月。乙亥、饗百濟使人大佐平智積等於朝。或本云、百濟使人大佐平智積及兒達率 闕名・恩率軍善。乃命健兒、相撲於翹岐前。智積等、宴畢而退、拜翹岐門。丙子、蘇我臣人鹿豎者、獲白雀子。是日同時、有人、以白雀納籠、而送蘇我大臣。戊寅、群臣相謂之曰、隨村々祝部所教、或殺牛馬、祭諸社神。或頻移市。或禱河伯。既無所效。蘇我大臣報曰、可於寺々轉讀大乘經典。悔過如佛所說、敬而祈雨。庚辰、於大寺南庭、嚴佛菩薩像與四天王像、屈請衆僧、讀大雲經等。于時、蘇我大臣、手執香鑪、燒香發願。辛巳、微雨。壬午、不能祈雨。故停讀經。
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