皇極天皇(十一)5色の雲・大臣と巫覡・飛鳥の板蓋の新宮

MENU
TOP>皇極天皇(日本書紀)>皇極天皇(十一)5色の雲・大臣と巫覡・飛鳥の板蓋の新宮

皇極天皇(十一)5色の雲・大臣と巫覡・飛鳥の板蓋の新宮

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

現代語訳

即位2年春1月1日の朝に5つの色の大きな雲が天に満ち、覆い、寅(トラノトコロ=寅の方角)が欠けていた。1つの色である青い霧は、周囲の土から起きていました。
1月10日に大風が吹きました。
2月20日。桃の花が初めて見れらました。
2月25日。雹(アラレ)が降って、草木の花を傷つけ枯らせました。
この月(2月)に風が吹いて雷が鳴って、雨氷(ミゾレ)が降りました。冬の令(マツリゴト)を行いました。国内の巫覡(カムナキ=祝女・男祝=男女の神官)たちは枝葉(シバ)を折って取って、木綿(ユフ)をシデのように掛けて、大臣(オオオミ)が橋を渡るときに、先を争って、神語(カムコト=神に捧げる言葉)の微妙な説(コトバ)を陳述しました。その巫(カムナキ=女性の神官)が非常に多く、全く聞くことができませんでした。

3月13日。難波の百済の客人の館堂(ムロツミ)と民の家屋に火災がありました。
3月25日。霜が降って草木の花葉を傷め枯らせました。
この月(3月)に風が吹いて雷が鳴って、雨氷(ミゾレ)が降りました。冬の令(マツリゴト)を行いました。

夏4月7日。大いに風が吹いて雨が降りました。
4月8日。風が起き、天は寒かったです。
4月20日。西に風が吹いて、雹(アラレ)が降りました。天は寒かったです。人々は綿袍三領(ワタキヌミツ=綿の入った着物)を着ました。
4月21日。筑紫の大宰(ミコトモチノツカサ)は馳駅(ハイマ=早馬)をして申し上げて言いました。
「百済国の主の子の翹岐(ゲウキ)弟王子は調(ミツキ=税)の使者とともに、来ました」
4月28日。権宮(カリミヤ=仮の宮)から移動して飛鳥(アスカ)の板蓋(イタフキ=檜皮葺の屋根のこと=これ以前の飛鳥の宮は茅ぶきだったと思われます=現在の奈良県高市郡明日香村大字岡と思われる)の新宮(ニイミヤ=新しい宮)に行きました。
25日。近江国は言いました。
「雹(アラレ)が降りました。その大きさは直径が1寸(ヒトキ=3センチ)でした」
Pre<<<  >>>Next 
スポンサードリンク

解説

気候の記述が多い。これまでは推古天皇以降に天変地異が多いから、だと思っていましたが、2月3月の冬に雹が降っても、それは「異常気象」とは言えない。確かに異常な記述もありますが、いうほどでもない。これ以前は「日照り」と言った記述がありましたが、このところは単に「気象記録」に近いのではないかと。
巫覡と大臣
大臣というのはこの時代では「蘇我蝦夷」を表しています。ここでは橋を渡る蘇我蝦夷に巫覡たちが「神の言葉」を投げかけるというものですが、これが何を意味しているのか?はハッキリしません。

説の一つとしては権力者である蘇我蝦夷に巫覡たちがこびへつらい、おべっかの言葉を投げかけるという意味。
他の説としては、蘇我蝦夷に巫覡たちが批判を述べたという説。どちらもさもありなん、何ですよね。

蘇我蝦夷の立場というのが、ハッキリしないのですね。蘇我馬子は聖徳太子とタッグを組んで仏教推進派だった。ところが蝦夷は聖徳太子の子で蘇我の血を引く山背大兄王ではなく、蘇我の嫁をもらってはいるものの血統はバリバリの皇族である田村皇子(舒明天皇)を押しました。だから蝦夷は「非仏教派」のようでもあるのです。

その蝦夷を巫覡が媚びへつらって褒め称えるとしても、反対に、批判の言葉を浴びせたとしても、理屈は通ります。
スポンサードリンク

原文

二年春正月壬子朔旦、五色大雲、滿覆於天、而闕於寅。一色靑霧、周起於地。辛酉、大風。二月辛巳朔庚子、桃花始見。乙巳、雹傷草木花葉。是月、風雷雨氷。行冬令。國內巫覡等、折取枝葉、懸掛木綿、伺候大臣渡橋之時、爭陳神語入微之說。其巫甚多、不可悉聽。三月辛亥朔癸亥、災難波百濟客館堂與民家室。乙亥、霜傷草木花葉。是月、風雷雨氷。行冬令。夏四月庚辰朔丙戌、大風而雨。丁亥、風起天寒。己亥、西風而雹。天寒、人著綿袍三領。庚子、筑紫大宰、馳驛奏曰、百濟國主兒翹岐・弟王子、共調使來。丁未、自權宮移幸飛鳥板蓋新宮。甲辰、近江國言、雹下、其大徑一寸。
Pre<<<  >>>Next 
スポンサードリンク

SNSボタン

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

ページ一覧

編集