皇極天皇(十五)巨勢徳太臣と土師娑婆連は斑鳩宮を襲撃する

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皇極天皇(十五)巨勢徳太臣と土師娑婆連は斑鳩宮を襲撃する

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現代語訳

(即位2年)11月1日。蘇我臣入鹿(ソガノオミイルカ)は小徳(ショウトク)の巨勢徳太臣(コセノトコダノオミ)・大仁(ダイニン)の土師娑婆連(ハジノサバノムラジ)を派遣して、山背大兄王(ヤマシロノオオエノミコ=聖徳太子の子)たちを斑鳩(イカルガ)を襲わせました。
ある本によると、巨勢徳太臣(コセノトコダノオミ)・倭馬飼首(ヤマトノウマカイノオビト)を将軍としたと言います。

そこに奴三成(ヤッコミナリ)と数十人の舎人(トネリ=従者)が出て防ぎ、戦いました。土師娑婆連(ハジノサバノムラジ)は矢に当たって死にました。軍の衆(ヒトドモ)は恐れて退却しました。軍の中の人は、語り合って言いました。
「一人で千人に当たるというのは、三成(ミナリ)というのか」
山背大兄は馬の骨を取って、内寝(ヨドノ=寝るための建物)に投げおきました。その結果、その妃(ミメ)と子弟(ミウガラ=子供と兄弟)たちを率いて、人のいない隙に逃げて出て、胆駒山(イコマヤマ)に隠れました。三輪文屋君(ミワノフミヤノキミ)・舍人田目連(トネリタメノムラジ)とその娘・菟田諸石(ウダノモロシ)・伊勢阿部堅経(イセノアベノカタブ)が従者として仕えました。巨勢徳太臣(コセノトコダノオミ)たちは斑鳩宮を焼きました。灰の中に骨を見つけて、誤待って王(ミコ=山背大兄王のこと)が死んでしまったと思って、包囲網を解いて退却して去りました。それで山背大兄王たちは4、5日の間、山の庵に留まって、飯を食べることができませんでした。三輪文屋君は進み出て、勧めて言いました。
「請い願います。深草屯倉(フカクサノミヤケ=山城国紀伊軍深草郷=現在の京都市伏見区)に向かって移動して、ここから馬に乗って東国(アズマノクニ=未開の土地)に至って、乳部(ミブ)を本(モト)にして、師(イクサ=軍隊)を起こして、帰ってきて戦いましょう。勝ちます。必ず上手くいきます」
山背大兄王たちは答えて言いました。
「卿(イマシ=お前)が言っているようならば、勝とうとすれば必ずそうなるだろう。ただし、私の心が願っているのは、10年も百姓を使役したくない。私一人の身をもって、どうして万民を煩わせるのか。また、後世に民が私のせいで、自分の父母を滅ぼされたと言われることは欲していない。どうして、戦いに勝って後に、私をまさに丈夫(マスラオ=立派な男)とは言うだろうか? この身を捨てて国を固くすることこそ、丈夫(マスラオ)ではないだろうか?」
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解説

ついに曽我入鹿が山背大兄王を襲いました。しかし襲撃そのものには失敗。山背大兄王は斑鳩宮から逃げて胆駒山(イコマヤマ)に逃げました。そこで、関東へと逃げて体制を立て直してはどうかと提案されるのですが、
「そんなことをして、民を使役するより、我が身を捨てて国が乱れるのを避ける方が立派じゃないか?」
と身を引くことを自ら提案します。あまりに出来すぎ。立派な有り様です。しかし、似たような話が日本書紀には多い。私はこれは単純に山背大兄王は政略に敗れ、ここで戦争に敗れただけでしょう。ただ、聖徳太子と山背大兄王に対して、世間が良いイメージを持ち、蘇我氏を悪いと思っているのが背景にあったのは間違いがないでしょう。
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原文

十一月丙子朔、蘇我臣入鹿、遣小德巨勢德太臣・大仁土師娑婆連、掩山背大兄王等於斑鳩。或本云、以巨勢德太臣・倭馬飼首爲將軍。於是、奴三成、與數十舍人、出而拒戰。土師娑婆連、中箭而死。軍衆恐退。軍中之人、相謂之曰、一人當千、謂三成歟。山背大兄、仍取馬骨、投置內寢。遂率其妃、幷子弟等、得間逃出、隱膽駒山。三輪文屋君・舍人田目連及其女・菟田諸石・伊勢阿部堅經、從焉。巨勢德太臣等、燒斑鳩宮、灰中見骨、誤謂王死、解圍退去。由是、山背大兄王等、四五日間、淹留於山、不得喫飲。三輪文屋君、進而勸曰、請、移向於深草屯倉、從茲乘馬、詣東国、以乳部爲本、興師還戰、其勝必矣。山背大兄王等對曰、如卿所噵、其勝必然。但吾情冀、十年不役百姓。以一身之故、豈煩勞萬民。又於後世、不欲民言由吾之故喪己父母。豈其戰勝之後、方言丈夫哉。夫損身固国、不亦丈夫者歟。
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