皇極天皇(十七)中臣鎌子連を軽皇子が厚遇する

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皇極天皇(十七)中臣鎌子連を軽皇子が厚遇する

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現代語訳

即位3年春1月1日。中臣鎌子連(ナカトミノカマコノムラジ)を神祗伯(カムツカサノカミ)に拝しました。再三(シキリ)に固辞(イナブ=断る)して就任しましせんでした。疾病だと自称して、退出して三嶋(ミシマ)に居ました。その時、軽皇子(カルノミコ=のちの孝徳天皇)は足の病気で朝廷に参上できませんでした。中臣鎌子連は以前から軽皇子と仲が良かった。そこで皇子の宮に詣でて、仕えて宿に泊まりました。軽皇子は深く中臣鎌子連の意気(ココロバエ=心意気)の高く優れていて、内面は動かし難いものだと知って、すぐに寵妃(メグミタマウミメ)の阿倍氏(アヘシ)を使って、別殿(コトドノ)を清め祓って、新しい寝床を高く敷いて、細かく世話をさせました。敬愛し、重用し、特別扱いでした。中臣鎌子連は、すぐに厚遇されていると感じて、舎人(トネリ=従者)に語って言いました。
「このように特別に恩恵を受け賜るというのは、かねてから望んだもの以上だ。(軽皇子が)天下の王になることを、誰が邪魔できるだろうか!」
軽皇子は自分の舎人を、中臣鎌子への駈使(ツカイ=使者)としていたと言います。

すぐに舎人は語ったことを皇子に申し上げました。皇子は大いに喜びました。
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解説

中臣氏
のちに藤原姓を賜って、平安時代、そしてその後も天皇家に食いついて離れないスッポンかヒルのように生きて行く中臣氏が、ここで登場。登場と言っても、中臣氏自体は歴史のある氏族で、ここで突然現れた訳じゃありません。

中臣氏は神と人間の間をつなぐ、まぁ「神官」氏族です。中臣氏はこの時代にはいろいろと分家があって、多数に広がっていました。ここで登場した中臣氏は、そもそも中央で活躍していた本家の方ではなく、地方で実績を積んで出世した、分家の方なんです。

地方に飛ばされてくすぶっていた中臣氏なのですが、関東の鹿島神社で功績を挙げました。この時代はまだ関東は未開の土地で蝦夷の関係は不安定でした。そこに中臣氏がやってきて神と原住民との関係を繋いだのです。

鹿島神社の神の「タケミカヅチ」は大和の神ではなく現地の神でした。中臣氏は現地の神のタケミカヅチと、現地の人の間に、大和朝廷風の「祀り方」で、割って入ったのです。それで良好な関係を築いた。それが中臣氏の功績です。要は、海外で実績を積んだ若手が、本社で役員待遇を受けたって感じですね。
軽皇子
軽皇子はのちの孝徳天皇。次の天皇です。これから蘇我氏は殺され、皇極天皇は引退、孝徳天皇が擁立されます。ハッキリ言って、中臣氏+中大兄皇子vs蘇我氏の単なる権力闘争なんですよね。そこに「どっちが正しい」「どっちが忠誠心があるか」「どっちが国を思っているか」という要素を加えたものが「物語」として残っているだけのことです。どこまでが事実かなんて曖昧なものです。

さて。
軽皇子は中臣鎌子を厚遇し、鎌子はそれを感じて答えようとします。寝床を高くするのは、非常に厚遇です。また妃に身の回りの世話をさせたというのも、厚遇です。少なくとも、「王と従者」の関係じゃない。軽皇子から見れば「同等」くらいに思っているよというアピールです。ただこういうことを書くということは、天皇になるためには血統だけではなく「後ろ盾」がないと成れないということです。それは山背大兄王の人生が表していますが。
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原文

三年春正月乙亥朔、以中臣鎌子連拜神祗伯、再三固辭不就、稱疾退居三嶋。于時、輕皇子、患脚不朝。中臣鎌子連、曾善於輕皇子、故詣彼宮、而將侍宿。輕皇子、深識中臣鎌子連之意氣高逸容止難犯、乃使寵妃阿倍氏、淨掃別殿、高鋪新蓐、靡不具給、敬重特異。中臣鎌子連、便感所遇、而語舍人曰、殊奉恩澤、過前所望、誰能不使王天下耶。(謂充舍人爲駈使也。)舍人、便以所語、陳於皇子、皇子大悅。
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