孝徳天皇(四)皇后と二人の妃・明神御宇日本天皇の高麗への詔旨

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孝徳天皇(四)皇后と二人の妃・明神御宇日本天皇の高麗への詔旨

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原文

大化元年秋七月丁卯朔戊辰、立息長足日廣額天皇女間人皇女、爲皇后。立二妃。元妃、阿倍倉梯麻呂大臣女曰小足媛、生有間皇子。次妃、蘇我山田石川麻呂大臣女曰乳娘。丙子、高麗・百濟・新羅、並遣使進調。百濟調使、兼領任那使、進任那調。唯百濟大使佐平緣福、遇病留津館而不入於京。巨勢德太臣、詔於高麗使曰、明神御宇日本天皇詔旨、天皇所遣之使、與高麗神子奉遣之使、既往短而將來長。是故、可以温和之心、相繼往來而已。

現代語訳

(即位1年)大化1年秋7月2日。息長足日広額天皇(オキナガタラシヒヒロヌカノスメラミコト=舒明天皇)の娘の間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)を立てて皇后としました。二人の妃も立てました。一人目の妃は阿倍倉梯麻呂大臣(アヘノクラハシノマロノオオオミ)の娘の小足媛(オタラシヒメ)と言います。有間皇子(アリマノミコ)を産みました。二人目の妃は蘇我山田石川麻呂大臣(ソガノヤマダノイシカワノマロノオオオミ)の娘の乳娘(チノイラツメ)と言います。
10日。高麗・百済・新羅は並んで使者を派遣して調(ミツキ=税)を献上しました。百済の調(ミツキ)の使者は任那の使者を兼ねていて、任那の調(ミツキ)も献上しました。ただ、百済の大使の佐平緣福(サヘイエンフク)だけは、病気になって津(ツ)の館(ムロツミ)に留まって、京(ミヤコ)に入りませんでした。巨勢徳太臣(コセノトコダノオミ)は高麗の使者に詔(ミコトノリ)して言いました。
「明神御宇日本天皇(アキツミカミトアメノシタシラスヤマトノスメラミコト)が詔旨(オオミコトラマ)を述べたように、天皇が派遣した使者と、高麗の神の子の奉り派遣した使者が、既往(イニシカタ=これまで)は短いが、将来(クルカタ=これから)は長くなるでしょう。だからこそ、温和な心で、お互いに往来するべきだろうと述べていました」
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解説

高麗との関係
これ以前に、北陸に使者が流れ着いたり、高麗が中国の30万軍隊を撃破した報告があったり、天皇が変わると使者を送ってきたと、なんやかんやと近しい関係を維持しています。少なくとも敵対はしていない。
まぁ、接してないのだから、敵対したってなんら得するものが無いですからねぇ。
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