孝徳天皇(十)大寺での僧尼への詔

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孝徳天皇(十)大寺での僧尼への詔

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原文

癸卯、遣使於大寺、喚聚僧尼而詔曰。「於磯城嶋宮御宇天皇十三年中、百濟明王、奉傳佛法於我大倭。是時、群臣倶不欲傳、而蘇我稻目宿禰、獨信其法。天皇乃詔稻目宿禰、使奉其法。於譯語田宮御宇天皇之世、蘇我馬子宿禰、追遵考父之風、猶重能仁世之教。而餘臣不信、此典幾亡。天皇、詔馬子宿禰而使奉其法。於小墾田宮御宇天皇之世、馬子宿禰、奉爲天皇造丈六繡像・丈六銅像、顯揚佛教、恭敬僧尼。朕、更復思崇正教光啓大猷。

現代語訳

(即位1年8月)8日。使者を大寺(オオデラ=百済大寺か飛鳥寺か)に派遣して僧尼(ホウシアマ)を呼び寄せ集めて、詔(ミコトノリ)して言いました。
「磯城嶋宮御宇天皇(シキシマノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコト=欽明天皇)の13年の中(コロオイ)に百済の明王(メイオウ)は仏法を我が大倭(ミカド)に伝えた。この時に、群臣(マヘツキミタチ=臣下たち)は共に、伝わることを欲していませんでした。しかし、蘇我稲目宿禰(ソガノイナメノスクネ)は一人、その法(ノリ=仏法)を信じました。天皇は稲目宿禰に詔(ミコトノリ)して、その法を信奉させました。訳語田宮御宇天皇(オサタノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコト=敏達天皇)の世に蘇我馬子宿禰(ソガノウマコノスクネ)は後を追って、孝父(カゾ=父)の風(ノリ)を尊び、能仁(ホトケ=釈迦のこと)の教えを重ねて崇めました。しかし、他の臣下は信じなかった。この典(ノリ=仏教)はこのまま滅びようとしています。天皇は馬子宿禰に詔(ミコトノリ)して、その法(=仏法)を信奉させました。小墾田宮御宇天皇(オハリダノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコト=推古天皇)の世に馬子宿禰は天皇のために丈六(ジョウロク=仏像の大きさの基本)の繡像(ヌイモノノミカタ=刺繍の仏像)・丈六の銅像(アカガネノミカタ)を作りました。仏教を讃えて、広く広めて、僧尼を慎み敬いました。朕(ワレ)はさらにまた、正教(ミノリ)を崇め、大いなる猷(ノリ=仏教を広げる計画)を光で照らし、その道が開けるだろうと思い願う。
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解説

日本に仏教がやってきた時、神道を権力の理由としていた大和朝廷の氏族たちは、仏教の渡来に反対しました。そりゃそうでしょうよ。その中で蘇我氏だけが仏教を積極的に受け入れた。そういう経緯があって、その後、蘇我氏が出世し、その蘇我氏が中臣鎌子・中大兄皇子によって殺されてしまいました。それで即位したのが孝徳天皇です。

孝徳天皇は蘇我氏が死んだことによって即位した、という言い方もできます。

その孝徳天皇が寺の者に詔をした。寺の援助を次のページで約束をします。ここで「仏教を捨てるよ」ということではなく、これからも仏教を保護するよ、ってことです。仏教は利用価値が大きかったのでしょう。
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