孝徳天皇(十三)公地公民

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孝徳天皇(十三)公地公民

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現代語訳

(即位1年)9月19日。使者を諸国に派遣して民の元数(オオカズ=人数)を記録しました。それで詔(ミコトノリ)して言いました。
「古(イニシエ)から以降、天皇の時代ごとに、代(シロ)の民(=名代の民のこと=天皇の事績を伝える民)を置き、標(アラワ)して名を後に残しました。臣連たち・伴造・国造はそれぞれが自分の民を置いて、心の欲しいままに駆使しました。また国県の山海・林野・池田を割って取って、自分の財産として、争い戦うことが止みませんでした。ある人は数万頃(頃は広さの単位)を併合してしまった。ある人は全く針を刺すような小さな土地も持っていない。調賦(ミツキ=税)を献上するときに、その臣・連たちはまず、自分が(田から)収奪して、そうして後に分けて(朝廷に)献上する。宮殿を作って、園陵(ミサザキ=墓)を築造するために、それぞれが自分の民を率いて、従わせて作った。易(エキ)が言いました。
『上に損をさせて、下が利益を得る。制度(ノリ=法)に従わせれば、財を損なうこともなく、民に害することもないだろう』
百姓は貧乏している。勢いがあるものは水陸を割って、私有地として、百姓に売り(=貸し=この時代では「貸す」ことを「売る」と書いた)、年ごとにその価格を請求した(=地代を請求した)。これより以後、土地を売る(=貸す)ことはできない。みだりに主となって、拙く弱いものを自分のものとしてはいけない」
百姓は大いに喜びました。
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解説

公地公民
俗に言う公地公民。中学の歴史で習ったなぁ。
この発布が厳密に運営されていたのかは、疑問、というのが現在の風潮ではありますが、仮に厳密に運営されたとするならば、これ以前は土地は「大和朝廷のもの」というわけではなかったということになり、これ以降は「大和朝廷のもの」になったということになります。

ところで、孝徳天皇は出自のところで「儒教を勉強した」とあるのですから、儒教的な世界観を重視していたはずです。また天智天皇も同様ですから、この時代の日本の政治には儒教が強く関わっていたということになります。

儒教では天があり、その天から統治を任されている存在が「天子」です。よって世界の土地や人民は全て「天子」が統率し、自由に運営していいことになっています。つまり土地と人民は「天子」…日本ではこれが天皇にあたるので、天皇のものということです。これが公地公民の根本的な部分なんでしょう。

そして儒教では、天子の下に臣下がおり、官僚がいて、最後に人民がいるという「ピラミッド方式」に成っています。これによって国家を運営していこうということです。では日本古来の組織運営は違うのか?というと、違います。日本では、中心人物が参加者の利害調整するのが「組織」です。こう言う組織観は高天原の神話で見られます。

おそらく日本の勢力が拡大する中で従来の「利害調整型の組織運営」では限界を感じるようになったのでしょう。また中国式の儒教的組織運営の方が合理的だと考えたのかもしれません。それで儒教の世界観を採用し、公地公民を発布し、人民と土地は天皇に所属するものであり、私有してはいけないことになった。

ですが、これって「見解」の違い程度のことなんです。見方を変えただけで、本質は何も変わっていません。建前では民と土地は天皇のものですが、儒教的な世界観で運営すということは、管理方法がピラミッド組織な訳です。ということは民と土地は、地方の氏族の管理下に置かれることになり、私有しているとは言えなくても、実質やりたい放題な訳です。

これは北朝鮮が「みんな平等」と言いつつ、実質は階級社会であるのと一緒です。
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原文

甲申、遣使者於諸國錄民元數。仍詔曰。自古以降毎天皇時、置標代民、垂名於後。其臣連等・伴造國造、各置己民恣情駈使、又割國縣山海・林野・池田、以爲己財、爭戰不已。或者兼幷數萬頃田、或者全無容針少地。進調賦時、其臣連伴造等、先自收斂然後分進。修治宮殿築造園陵、各率己民隨事而作。易曰、損上益下、節以制度、不傷財不害民。方今百姓猶乏、而有勢者分割水陸以爲私地、賣與百姓年索其價。從今以後、不得賣地、勿妄作主兼幷劣弱。百姓大悅。
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