孝徳天皇(二十)進善之旌・誹謗之木

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孝徳天皇(二十)進善之旌・誹謗之木

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原文

月甲午朔戊申、天皇幸宮東門、使蘇我右大臣詔曰。明神御宇日本倭根子天皇、詔於集侍卿等臣連国造伴造及諸百姓。朕聞、明哲之御民者、懸鍾於闕而觀百姓之憂、作屋於衢而聽路行之謗。雖蒭蕘之說、親問爲師。由是、朕前下詔曰、古之治天下、朝有進善之旌・誹謗之木、所以通治道而來諫者也、皆所以廣詢于下也。

現代語訳

(即位2年)2月15日。天皇は宮の東の門に行きました。蘇我右大臣(ソガノミギノオオオミ=蘇我山田石川麻呂)に詔(ミコトノリ)して言いました。
「明神御宇日本倭根子天皇(アキツミカミトアメノシタシラスヤマトネコノスメラミコト=孝徳天皇)は集まり蠢いている卿等(マヘツキミタチ=臣下たち)・臣・連・国造・伴造と諸々の百姓に詔(ミコトノリ)した。朕(ワレ=天皇の一人称)が聞いたところによると、明哲(サカシヒト=賢い)の民を治めるには、鐘を闕(ミカド=櫓【ヤグラ】)にかけて、百姓の憂いをよく観察し、家屋を衢(チマタ=四つ辻)に作って、路を行く人の誹謗を聞く。蒭蕘(クサカリワラワ=草刈りをする人と木こりのこと=身分が低いもののこと)の説(コト=主張)といえども、自ら問い、師と仰いで教えを請うようにするべきだ。それで朕が以前に詔(ミコトノリ)を下して言って、古の天下を治めたこと、朝廷に善言(ためになる進言)を受け付ける場所に立てる旗と、朝廷の政治を誹謗批判した言葉を受け付ける木がある。政治の道を通じて、諌めるものが来る理由です。皆、広く、下々の者に問い尋ねる理由です。
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解説

儒教的な世界観
これまでにも日本書紀には儒教の世界観を踏襲したものがあったのですが、これほど明確ではなかった、と思います。いずれ、読み直して一覧にまとめましょう。
ま、それはともかく。

儒教では立派な徳のある人物が上に立つことになっています。儒教の本にはよく「道徳の物語」があって、そこでは「本当は立派な道徳のある人物」が「身分を隠して、農夫として生活している」という、釣りバカ日誌の初期の浜ちゃんスーさん的な設定があって、見た目では判断できなかったり、そういう人からも学ぶべきものは沢山あるみたいな道徳の説話があります。だから見た目がみすぼらしくてもバカには出来ないわけです。

儒教では堯・舜といった伝説的な名君というのが居たとされていて、それが理想の政治を行っていたことになっています。その時代には、旗を道に旗を立てて、そこで政府に進言する…まぁ、「こうした方がいいんじゃないか?」というアイデアを募集していたり、木を立てて、そこで政府の失敗や問題点を書かせた、という故事が残っています。

まぁ、実際には政府に進言するなんて、庶民にできるわけもありませんし、政府の過失を「書く」ということは読み書きができないと無理です。ということは実際には、そんなお話は無かったか、機能していないかなわけです。ですが、そういう立派なお話が残っていて、日本もそこにならって「立派な天皇」を演出しようとした。それは日本が儒教的な国家を目指していたからでしょう。
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