孝徳天皇(三十三)王と臣たちの葬儀のルール

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孝徳天皇(三十三)王と臣たちの葬儀のルール

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原文

廼者、我民貧絶、專由營墓。爰陳其制、尊卑使別。夫王以上之墓者、其內長九尺・濶五尺、其外域方九尋・高五尋、役一千人・七日使訖、其葬時帷帳等用白布、有轜車。上臣之墓者、其內長濶及高皆准於上、其外域・方七尋・高三尋、役五百人・五日使訖、其葬時帷帳等用白布、擔而行之蓋此以肩擔輿而送之乎。下臣之墓者、其內長濶及高皆准於上、其外域・方五尋・高二尋半、役二百五十人・三日使訖、其葬時帷帳等用白布、亦准於上。大仁・小仁之墓者、其內長九尺・高濶各四尺、不封使平、役一百人・一日使訖。大禮以下小智以上之墓者、皆准大仁、役五十人・一日使訖。凡王以下小智以上之墓者、宜用小石、其帷帳等宜用白布。庶民亡時、收埋於地、其帷帳等可用麁布、一日莫停。凡王以下及至庶民、不得營殯。凡自畿內及諸国等、宜定一所而使收埋、不得汚穢散埋處々。凡人死亡之時、若經自殉・或絞人殉及强殉亡人之馬・或爲亡人藏寶於墓・或爲亡人斷髮刺股而誄、如此舊俗一皆悉斷或本云、無藏金銀錦綾五綵。又曰、凡自諸臣及至于民、不得用金銀。縱有違詔、犯所禁者、必罪其族。
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現代語訳

この頃、我が国の民は貧しさを絶しているのは、専墓(タクメハカ=氏族のための墓)を造営するからだ。ここのその制度を陳述して、地位の高いものと地位の低い卑しいものを分けておこう。

王(ミコ)たちより以上の地位の墓は、その内(玄室の入り口のこと)の長さは9尺、広さは5尺。その外周は9尋、高さは5尋。使役する民は1000人。7日で終わらせなさい。葬る時の帷帳(カタビラカキシロ=褚=タレギヌ=棺に掛ける布)などには白い布を用いなさい。轜車(キクルマ=葬屋の車=現在でいう霊柩車)を使いなさい。上臣(タカキマエツノキミ)の墓はその内の長さ広さと高さは、皆、上に習ってください。その外の外周は7尋、高さは3尋。使役する民は500人で5日で終わらせなさい。その葬る時の帷帳(カタビラカキシロ)などには白布を用いなさい。(遺体は)担いで行け。
これは肩で輿(コシ=神輿のようなものに遺体を乗せる器具)を担って送ることか?

下臣(ヒクキマヘツキミ)の墓はその内の長さ広さと高さは皆、上に習ってください。その外周は5尋、高さは2尋半。使役する民は250人。3日で終わらせなさい。その葬る時の帷帳(カタビラカキシロ)は白い布を用いること。また上に習ってください。

大仁・小仁の墓はその内の長さ9尺、高さ広さはそれぞれ4尺。封土(=古墳の盛り土)をせず、平らにしなさい。使役する民は100人。1日で終わらせなさい。大礼より以下、小智より以上のものは皆、大仁に習ってください。使役する民は50人。1日で終わらせなさい。

すべての王(オオキミ)より以下、小智よりも以上の墓では小さい石を用いなさい。帷帳(カタビラカキシロ)は白い布を用いなさい。

庶民が死亡した時は地面に埋めなさい。その帷帳(カタビラカキシロ)には麁布(アラキヌノ=目の粗い布)を用いなさい。1日も作業してはいけない。

王(オオキミ)より以下、庶民に至るまで、殯(モガリヤ)を造営することはできない。畿内から諸国まで、一箇所を定めて、埋め、穢らわしくも、ところどころに散らして埋めることは出来ない。

すべての人が死ぬ時に、自殺して殉死したり、人を絞め殺して殉死させたり、無理やりに死んだ人の馬を殉死させたり、死んだ人のために宝物を墓に納めたり、死んだ人のために、髪を切ったり股(モモ)を刺して、誄(シノビゴト=死んだ人に言葉をかけること、今でいう弔辞)をすること。こう言った古い習俗は、一切、全部、やめなさい。
ある本によると、金・銀・錦・綾・五綵(イツクサノシミノモノ=5色の布)を納めることが無いようにと言った。また、すべての諸々の臣から民に至るまでに、金・銀を用いることは出来ないと言った。

もし、詔(ミコトノリ)に違反して、禁じたことを犯すことがあれば、その一族を罪に問う。
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解説

孝徳天皇(三十二)薄葬の詔の続きです。
前のページでは天皇古墳を質素にするという宣言をしましたが、今度は下々のものまで細かく、古墳の大きさを規定しています。まぁ、天皇の古墳を質素にしたままだと、部下たちが自分より大きな古墳を作ってしまう。これを見た後世の人は「天皇、大したことないな」と思っちゃう。それはまずいと思ったのかもしれませんね。
殉葬
魏志倭人伝(中国の史書)には卑弥呼が死んだ時に奴婢を100人以上殉葬させた、とあります。また、淳和天皇の時代の令義解(リョウギノゲ=833年成立)などには信濃国には夫が死んだら妻を殉葬させる、とあります。
また垂仁天皇の時代には、殉葬を禁じて埴輪を置いたとあります。

となると殉葬をしていた、となるのですが、しかし殉葬をしていた証拠というのが無いのですね。殉葬したとみられる古墳が無い。ただ夫が死んで妻を殉葬した場合、夫婦が同じ墓に入っているので、これが殉葬なのかどうかは、なんとも言えないのです。

日本書紀の記述が本当ならば、妻では無い従者の殉葬があって然るべきなんですよ。馬の殉葬らしきものはあるが、それが無い。どういうことなのやら。

そこにこの
死んだ人のために、髪を切ったり股(モモ)を刺して、誄(シノビゴト)をすること

という記述が問題になります。これは西域諸胡や南方系民族やアイヌにあった風習です。

私は日本に殉葬の感覚が無かった、とは思いません。あったのだとは思いますが、ほとんど無かったのでしょう。何せ日本は「穢れ」を嫌います。また日本は祟りを嫌います。この二つを考慮すると、殉葬なんて日本の感覚から言えば、かなりズレている風習です。

さて、孝徳天皇と天智天皇(中大兄皇子)は儒教を勉強していました。儒教では「天」からこの世界の統治を任されているという設定です。となると天皇は世界の全てを統治しているという「設定」があったはずです。そこに貿易や移民によって遠い国の「殉葬」の風習の話が入ってくる。これらは日本の感覚からすると「アリエナイ」なのですが、まぁ、そういう風習の国もあると日本人は認識した。
もしかして、殉葬や、腿を傷つけて弔辞を読むという風習を禁じるのは、それらの見たことがない世界に向けての発信じゃないのかと。そういう詔を発することで、天皇には皆んなが見たことのもないような地域も従属させているんだぜ!とアピールできた。
無理があるかなぁ。
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