孝徳天皇(五十一)阿倍大臣の死・蘇我日向の讒言

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孝徳天皇(五十一)阿倍大臣の死・蘇我日向の讒言

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現代語訳

(即位5年)3月17日。阿倍大臣(アヘノオオオミ)が亡くなりました。天皇は朱雀門に行って、挙哀(ミネタテマツル=死者を祀るために泣くこと)をして慟哭しました。皇祖母尊(スメミオヤノミコト天皇の母=皇極天皇=ここでは皇極上皇)・皇太子(=中大兄皇子=のちの天智天皇)と諸々の公卿(マヘツキミ=臣下)は全員、したがって挙哀(ミネタテマツル)しました。
24日。蘇我臣日向(ソガノオミヒムカ)…
日向の字名は身刺(ムサシ)です。

倉山田大臣(クラノヤマダノオオオミ)のことを皇太子に譖(シコ=讒言して=嘘の密告)して言いました。
「私めの異母兄麻呂(コトハラノエマロ=蘇我倉山田石川麻呂のこと)は皇太子が海浜で遊んでいるのを伺い、殺害しようとしていました。反乱はもう遠くありません」
皇太子はそれを信じました。天皇は大伴狛連(オオトモノコマノムラジ)・三国麻呂公(ミクニノマロノキミ)・穗積嚙臣(ホズミノクイノオミ)を蘇我倉山田麻呂大臣のところに使者として派遣して、反乱の虚実を問いました。大臣は答えて言いました。
「問いに対する報告は、私めが面と向かって、天皇の下で陳情しましょう」
天皇は三国麻呂公(ミクニノマロノキミ)・穗積嚙臣(ホズミノクイノオミ)を派遣して、その反乱する状況を審(ツバヒラカ=善悪をハッキリさせる)にしようとしました。麻呂大臣はまた以前のように答えました。天皇はすぐに軍を起こして、大臣の宅を囲もうとしました。大臣は二人の子の法師(ホウシ)と赤猪(アカイ)…
別名を秦(ハダ)と言います。

を連れて、茅渟道(チヌノミチ)から逃げて倭国の境に向かいました。大臣の長子の興志(コゴシ)はこれ以前に倭に居て、
山田の家に居たと言います。

その寺を造営しました。今、父が逃げて来たと聞いて、今来(イマキ=地名=奈良県高市郡など)の大槻(オオツキ)へと迎えに行って、先陣をとって、寺に入りました。大臣に語って言いました。
「興志は請い願います。自らまっすぐに進んで、追って来る軍を迎えて防ぎましょう」
大臣は許しませんでした。この夜、興志は心の中で宮を焼こうと思っていました。もっと士卒(イクサビト=兵士)を集めました。
宮は小墾田宮(オハリダノミヤ)のことです。
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解説

蘇我日向、つまり蘇我身刺はこれまで何度か登場しています。最初に登場したのは、聖徳太子のこの山背大兄王と、のちの舒明天皇である田村皇子のどちらが「時期天皇か?」という問題が発生した時。ここでは田村皇子側についていました。

その後、蘇我倉山田麻呂が娘を中大兄皇子に献上しようという時に、その娘を盗んだ男がいました。それが「身狭臣」で、蘇我身刺と同一人物ではないかと言われています。

そして今回、蘇我倉山田麻呂を讒言で追い込み死なせるのが、蘇我日向(蘇我身刺)です。この人物は、歴史の境目に登場する奇妙な人物です。

推古天皇の死後、田村皇子と山背大兄王で朝廷は揺れます。これは明らかに時代の境目になった事件です。次の「娘を盗んだ」事件は、乙巳の変の直前、中大兄皇子が後ろ盾を欲していた大事な時期の事件です。そして蘇我倉山田麻呂の死。本当に奇妙な人物です。
●中大兄皇子は、後には孝徳天皇の子である有間皇子が謀反を起こそうとしていたという蘇我赤兄の報告をもとに有間皇子を誅殺しています。密告→謀反→誅殺というパターンは、藤原氏に受け継がれ、平安時代でも政敵を貶める手段となります。
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原文

三月乙巳朔辛酉、阿倍大臣薨。天皇幸朱雀門、舉哀而慟。皇祖母尊・皇太子等及諸公卿、悉隨哀哭。戊辰、蘇我臣日向(日向字身刺)譖倉山田大臣於皇太子曰。僕之異母兄麻呂、伺皇太子遊於海濱而將害之、將反其不久。皇太子信之。天皇、使大伴狛連・三國麻呂公・穗積嚙臣於蘇我倉山田麻呂大臣所而問反之虛實。大臣答曰、被問之報僕面當陳天皇之所。天皇、更遣三國麻呂公・穗積嚙臣審其反狀、麻呂大臣亦如前答。天皇乃將興軍、圍大臣宅。大臣乃將二子法師與赤猪(更名秦)、自茅渟道逃向於倭國境。大臣長子興志、先是在倭謂在山田之家營造其寺。今忽聞父逃來之事、迎於今來大槻近、就前行入寺。顧謂大臣曰、興志請、自直進逆拒來軍。大臣不許焉。是夜、興志意欲燒宮、猶聚士卒(宮謂小墾田宮)。
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