孝徳天皇(五十五)人事・沙飡金多遂を人質に

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孝徳天皇(五十五)人事・沙飡金多遂を人質に

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原文

夏四月乙卯朔甲午、於小紫巨勢德陀古臣授大紫爲左大臣、於小紫大伴長德連(字馬飼)授大紫爲右大臣。五月癸卯朔、遣小花下三輪君色夫・大山上掃部連角麻呂等於新羅。是歲、新羅王、遣沙㖨部沙飡金多遂爲質、從者卅七人(僧一人・侍郎二人・丞一人・達官郎一人・中客五人・才伎十人・譯語一人・雜傔人十六人、幷卅七人也。)

現代語訳

(即位5年)夏4月20日。小紫の巨勢徳陀古臣(コセノトコダノコノオミ)に大紫を授けて、左大臣としました。小紫の大伴長徳連(オオトモノナガトコノムラジ)…
字名は馬飼(ウマカイ)といいます。

に大紫を授けて右大臣としました。
5月1日。小花下(ショウカゲ)の三輪君色夫(ミワノキミシコブ)・大山上(ダイセンジョウ)の掃部連角麻呂(カニモリノムラジツノマロ)たちを新羅に派遣しました。
この年、新羅の王は沙㖨部(サトクホウ)の沙飡金多遂(ササンコムタスイ)を派遣して人質としました。従者37人。
僧1人・侍郎(ジロウ)2人・丞(ジョウ)1人・達官郎(ダチカンロウ)1人・中客(ナカツマラウト)5人・才伎(テヒト)10人・訳語(オサ)1人・様々な傔人(トモビト=従者)が16人。合わせて37人です。
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解説

新羅の人質
新羅の人質として日本にいた金春秋の代わりに金多遂という人物が派遣されました。しかし37人の従者がいて、才伎というのは技術者ですから、私たちが考える「人質」とはかなりイメージが違うものです。

私の考えですが、これはニュアンスの問題だったと思います。当時、日本は新羅を勢力下においてはいたけども、それは決して「植民地」という意味ではなく、新羅が大和朝廷が運営する貿易グループに参加していた、程度のことだったのだと思います。そこで新羅はその参加の証明として、貢物をし、また人質を提供した。しかし、人質と言っても、大和朝廷のとっては、その人質に教育を施して、日本風の考えを教える程度のことで、命をいつでも取れるようにしていた、という恐喝・恫喝めいたことではなく、どちらかというと留学に近いものだったのでしょう。

実際、金春秋はその後、新羅が発展する時の王ですし、百済の豊璋は百済再建の王となります。

貢物を献上したということを、漢文で表現すれば「朝貢」という言葉になります。何せ漢文は儒教の本場の中国の言葉だからです。日本の行動を儒教的に表現すれば、人質を取り、朝貢させた、となりますが、その時に日本が「その言葉通りに考えていたか」は、違うんじゃないか?と思っています。
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