孝徳天皇(五十七)雉子の輿・賀を奉る

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孝徳天皇(五十七)雉子の輿・賀を奉る

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原文

甲申、朝庭隊仗如元會儀、左右大臣百官人等爲四列於紫門外。以粟田臣飯蟲等四人使執雉輿而在前去。左右大臣乃率百官及百濟君豊璋・其弟塞城・忠勝・高麗侍醫毛治・新羅侍學士等而至中庭。使三国公麻呂・猪名公高見・三輪君甕穗・紀臣乎麻呂岐太四人代執雉輿而進殿前。時、左右大臣就執輿前頭、伊勢王・三国公麻呂・倉臣小屎執輿後頭、置於御座之前。天皇卽召皇太子共執而觀、皇太子退而再拜。使巨勢大臣奉賀曰「公卿百官人等奉賀。陛下以淸平之德治天下之故、爰有白雉自西方出。乃是、陛下及至千秋萬歲淨治四方大八嶋。公卿百官及諸百姓等、冀磬忠誠勤將事。」奉賀訖再拜。
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現代語訳

(即位6年)2月15日。朝廷の隊仗(ツワモノノヨソオイ=兵隊の装備)は元会儀(ムツキノウイタチノヨソオイ=元旦の儀式の身なり)のようでした。左右大臣の百官(ツカサツカサ=役人)たち、紫門(ミカド=天子の門)の外に四列になりました。粟田臣飯虫(アワタノオミイイムシ)たち4人で雉子の輿(コシ=神輿)を手に取って、前に立って去って行きました。左右大臣と百官と百済の君主の豊璋(ホウショウ)とその弟の塞城(サイジョウ)・忠勝(チュウショウ)・高麗の侍医(ミモトクスシ)の毛治(モウジ)・新羅の侍学士(ジガクジ=家庭教師)たちを率いて、中庭に到着しました。三国公麻呂(ミクニノキミマロ)・猪名公高見(イナノキミタカミ)・三輪君甕穗(ミワノキミミカホ)・紀臣乎麻呂岐太(キノオミオマロキダ)の4人が代わって雉の輿(コシ)を手に取って、殿(オオトノ=天皇の宮殿)の前に進みました。その時、左右大臣は輿(コシ)の前頭(マエ)を取り、伊勢王(イセノオオキミ)・三国公麻呂(ミクニノキミマロ)・倉臣小屎(クラノオミオクソ)は輿(コシ)の後頭(シリ)をとり、御座(ミマシ)の前に起きました。天皇はすぐに皇太子(=中大兄皇子)を呼び寄せて、共に取って観覧しました。皇太子は退いて再拝(オガミ)しました。巨勢大臣(コセノオオオミ)に賀(ヨゴト=天皇の世が続くように願う言葉)を奉納させて言いました。
「公卿(マヘツキミ=臣下)・百官(ツカサツカサ=役人)の人たちが賀(ヨゴト)を奉納し、陛下は清らかで静かに平定する徳(イキオイ)で天下を治めたがために、白い雉子が西の方から出てきました。これにより陛下が千秋万歳(チヨヨロズヨ)に至るまでに清らかに四方の大八嶋(オオヤシマ=日本列島のこと)を治め、公卿(マヘツキミ)・百官と諸々の百姓たち、願わくば、忠誠(マメココロ)を尽くし、勤しんで支えましょう」
賀(ヨゴト)が終わり、再拜(オガミ)しました。
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解説

日本は山に神が住んでいて、その神を里に導いて、畑に宿して、神の霊威のおかげで畑の作物が育って、収穫するという世界観を持っていました。ではその神はどうやって里に下りるのか?というと、その方法が地域によって違っていたり、氏族によって違っていたのだと思います。
その中で、神輿というのがありました。山で神輿を作り、その神輿をみんなで担いで降りて、里で神輿を壊すということをしていました。そうやって里に神を導いていたわけです。その神輿の「固定版」が「神社」です。

このページでは白い雉子を神輿に乗せて、大臣や氏族が運んでいるのは、鳥を「穀物神」としているからでしょう。ちなみに白い雉子はさらに霊威が強いという認識があったはずです。
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