孝徳天皇(六十三)無量寿経と論議者と作聴衆・隣保の規定

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孝徳天皇(六十三)無量寿経と論議者と作聴衆・隣保の規定

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現代語訳

(即位8年)3月9日。車駕(スメラミコト天皇の乗る車)が宮に帰りました。

夏4月15日。沙門(ホウシ)の恵隠(エオン)を内裏に請願して呼んで、無量寿経を講じさせました。沙門の恵資(エシ)を論議者(ロンゲシャ)としました。沙門1000人を作聴衆(サチョウジュ)としました。
4月20日。講じるのを止めました。この日からしきりに雨が降りました。9日も雨が降って、宅屋(ヤカズ)が損壊し、田苗(タノナエ)に損害がありました。人や牛や馬がたくさん溺れ死にました。

この月に戸籍を作りました。50戸を1里としました。里ごとに長を1人。戸主には家長を当てました。すべての戸は5家で隣保としました。1人を長とします。お互いに、検察(カムガエミル)します。新羅・百済は使者を派遣して貢調(ミツキタテマツリ)し、物を献上しました。

秋9月。宮(=難波長柄豊碕宮)を作るのを終えました。その宮殿の状態は口にしてはいけない。
冬12月の晦(ツゴモリ=30日)に、天下の僧尼を内裏に請願して呼び寄せて、設斎(オガミ=儀式をして)、大捨(カキウテ)、燈(ミアカシ)灯す。
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解説

論議者・作聴衆
仏法について議論をしあう儀式があって、現在でも議論を行う寺があるらしいです。問題は、この議論をすると長雨が降ったということです。4月ですから農作業の大事な時期。苗が枯れ、溺れる者も出る始末。この天変地異が仏教儀式とリンクしていると、描いてあるわけです。
50戸を1里とする…
すでに大化の改新の詔の中で述べているものとほぼ同じ記述です。隣保の件は書いていませんから、その部分を追加するための詔だったのかもしれませんね。

そう考えると、日本書紀の記述は実際に天皇が述べた順番に記載していると考えた方が自然だと思います。
大捨
仏教では四無量心という心の状態を理想としていて、4つ(大慈・大悲・大喜・大捨)の中で、「捨」というのが落ち着いた状態を表す言葉です。
まぁ、なんでこれを儀式で特別に行ったのかというのは勉強不足。いずれ調べたいです。
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原文

三月戊午朔丙寅、車駕還宮。
夏四月戊子朔壬寅、請沙門惠隱於內裏、使講無量壽經、以沙門惠資爲論議者、以沙門一千爲作聽衆。丁未、罷講。自於此日初連雨水至于九日、損壤宅屋傷害田苗、人及牛馬溺死者衆。是月、造戸籍。凡五十戸爲里、毎里長一人。凡戸主皆以家長爲之。凡戸皆五家相保、一人爲長、以相檢察。新羅・百濟、遣使貢調獻物。秋九月、造宮已訖。其宮殿之狀、不可殫論。冬十二月晦、請天下僧尼於內裏、設齋・大捨・燃燈。
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