孝徳天皇(六十七)皇太子と皇極上皇と間人皇后は孝徳天皇を残して大和へ

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孝徳天皇(六十七)皇太子と皇極上皇と間人皇后は孝徳天皇を残して大和へ

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現代語訳

(即位9年)この年、太子(=中大兄皇子)は孝徳天皇に請願して申し上げました。
「願わくば、倭の京(ミヤコ)に移りましょう」
天皇は許しませんでした。皇太子は皇祖母尊(スメミオヤノミコト=皇極天皇=皇極上皇)と間人皇后(ハシヒトノキサキ=孝徳天皇の皇后)を奉り、皇子の弟たちを率いて行き、倭の飛鳥河辺行宮(アスカノカワラノカリミヤ)に居ました。その時、公卿大夫(マヘツキミタチ)・百官(ツカサツカサ=役人)の人たちは、皆、従って移りました。それで天皇は恨んで国位(クニ)を捨て去りたいと思って、宮を山碕(ヤマサキ=現在の京都府乙訓郡大山崎村大山崎?)に作らせました。そして歌を間人皇后に送って言いました。
鉗(カナキ)着け 吾(ア)が飼ふ駒(コマ)は 引き出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか
歌の訳鉗という逃げないように首にはめる木を付けて飼っていた馬。大事にしていたから、厩舎から引いて出しもしないというのに、私が飼っている馬を、他人が見つけて奪っていった。
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解説

天皇の権力について
天皇は権力者のはずです。それが皇太子と皇極上皇と皇后が移動すると、それに伴い、役人までが付いて行って大和へと移動した。おかしな話です。天皇の権力は絶対ではなかった、のかもしれません。

私はそもそも、「天皇は権力者ではあるが、権力の根拠は皇后にあった」のではないかと思っています。天皇は権力の代弁者ってことです。これは神功皇后仲哀天皇の関係が元にあったのでしょう。仲哀天皇が神おろしの儀式を執り行い、神功皇后が神を宿し、神の言葉を発する。仲哀天皇は神の言葉を実行する役目です。この場合、一見すると天皇が権力者で、神に等しい気がしますが、神に等しいのは神功皇后で、仲哀天皇は神功皇后の発する言葉を単に実行する役目です。
つまり天皇は権力者であっても、権力の根拠は皇后ってことです。

だから皇極上皇と間人皇后が大和に移動すると役人までもが移動した。神をその身に宿すのは皇后だからです。権力の根本が皇后なら、これはむしろ自然なこと。皇太子が皇極上皇と皇后を抱き込んだことがファインプレーであって、「孝徳天皇に人望がない」というわけでは無かったのではないか、と。
歌の意味
歌が実際に孝徳天皇が歌ったのかというとこれは怪しい。
歌を素直に読めば、恋人・妻を、誰かに寝取られる歌で、果たしてこんな露骨な歌を天皇が歌うのかとも思うし(まぁ歌っても変じゃないけど)、天皇が馬の管理をするわけもないのだから、恋人を馬に例えても、こんな馬の細かい管理方法を例えて歌にするとは思えない。
俺は俗人が歌った歌でしょう。
それを天皇が歌ったことにした。

ただ、この歌を取り込んだということは、間人皇后が中大兄皇子と「浮気」したという、世間の認識があったからじゃないかと思います。実際はわかりませんが、そういう噂があったのでしょう。
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原文

是歲、太子奏請曰、欲冀遷于倭京。天皇、不許焉。皇太子、乃奉皇祖母尊間人皇后幷率皇弟等、往居于倭飛鳥河邊行宮。于時、公卿大夫百官人等皆隨而遷。由是、天皇、恨欲捨於國位令造宮於山碕、乃送歌於間人皇后曰、
舸娜紀都該 阿我柯賦古磨播 比枳涅世儒 阿我柯賦古磨乎 比騰瀰都羅武箇
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