孝徳天皇(六十八)中臣鎌足に紫冠・新羅道で遣唐使を送る

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孝徳天皇(六十八)中臣鎌足に紫冠・新羅道で遣唐使を送る

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原文

五年春正月戊申朔夜、鼠向倭都而遷。壬子、以紫冠授中臣鎌足連、増封若干戸。
二月、遣大唐押使大錦上高向史玄理(或本云、夏五月遣大唐押使大花下高向玄理)・大使小錦下河邊臣麻呂・副使大山下藥師惠日・判官大乙上書直麻呂・宮首阿彌陀(或本云、判官小山下書直麻呂)・小乙上岡君宜・置始連大伯・小乙下中臣間人連老(老、此云於喩)・田邊史鳥等分乘二船。留連數月、取新羅道泊于萊州、遂到于京奉覲天子。於是、東宮監門郭丈舉、悉問日本国之地里及国初之神名、皆隨問而答。押使高向玄理、卒於大唐。伊吉博得言「學問僧惠妙於唐死、知聰於海死、智国於海死、智宗以庚寅年付新羅船歸、覺勝於唐死、義通於海死、定惠以乙丑年付劉德高等船歸。妙位・法勝・學生氷連老人・高黃金幷十二人・別倭種韓智興・趙元寶、今年共使人歸。」
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現代語訳

(即位10年)白雉5年春1月1日。鼠が倭の都に向いて移動しました。
1月5日。紫冠を中臣鎌足連(ナカトミノカマタリノムラジ)に授けました。封(ヘヒト)が増し、若干戸。

2月。大唐(モロコシ)に派遣した押使(シベツカイ=大使の上)の大錦上(ダイキンジョウ)の高向史玄理(タカムクノフビトゲンリ)…
ある本によると夏5月に大唐に派遣した、押使(シベツカイ)の大花下(ダイカゲ)の高向玄理(タカムクノゲンリ)と言います。

大使の小錦下(ショウキンゲ)の河辺臣麻呂(カワヘノオミマロ)・副使の大山下(ダイセンゲ)の薬師恵日(クスシエニチ)・判官(マツリゴトヒト)の大乙上(ダイオツジョウ)の書直麻呂(フミノアタイマロ)・宮首阿彌陀(ミヤノオビトアミダ)
ある本によると判官の小山下(ショウセンゲ)の書直麻呂と言います。

小乙上(ショウオツジョウ)の岡君宜(オカノキミヨロシ)・置始連大伯(オキソメノムラジオオク)・小乙下(ショウオツゲ)の中臣間人連老(ナカトミノハシヒトノムラジオユ)…
老は於喩(オユ)と言います。

田辺史鳥(タナヘノフビトトリ)たちは、二つの船に分かれて乗らせました。留連(ツタヨウ=遊興にふけって帰るのを忘れる)して数ヶ月。新羅道(シラキノミチ)を取って、萊州(ライシュウ=中国の山東省萊州府)に泊まりました。ついに京(ミヤコ)に到着して、天子と会見しました。東宮監門(トウキュウノカンモン=門を管理してる人)の郭丈挙(カクジョウキョ=人名)はすべての日本国の地理と国の初めの神の名を問いました。皆、問いに答えました。押使の高向玄理は大唐で死にました。
伊吉博得(イキノハカトコ)が言うには…
「学問僧の恵妙は唐で死にました。
知聡(チソウ)は海で死にました。
智国(チコク)は海で死にました。
智宗(チソウ)は庚寅(カノエトラ)の年に新羅の船に付いて帰りました。
覚勝(カクショウ)は唐で死にました。
義通(ギツウ)は海で死にました。
定恵(ジョウエ)は乙丑(キノトノウシ)の年に劉徳高(リュウトクコウ)たちの船に付いて帰りました。
妙位(ミョウイ)・法勝(ホウショウ)・学生の氷連老人(ヒノムラジオキナ)・高黄金(コウワウキン)を合わせて12人、それとは別に倭種(ヤマトノウジ=日本人とのハーフ)の韓智興(カンチコウ)・趙元宝(デウガンホウ)は今年、使者と共に帰ったと言います。
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解説

鎌足の初出
中臣鎌足の名前が初めて出た。いつの間にか、鎌足になってます。今まで鎌子だったのに。ところでこの「タリ」ってのは、天皇の名前に良く使われう「タラシ」と同義か、それに近い意味なんじゃないかと。
新羅道
新羅道は朝鮮経由で中国へ行く道のこと。遣唐使の船が鹿児島で難破した時に、わざわざ「ナニナニ道」という名前が出てこなかったということは、鹿児島→沖縄→台湾→中国の方が、普通の経路で、朝鮮を通るのは特殊な道ってことでしょう。
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