斉明天皇(八)建王の死と歌

MENU
TOP>斉明天皇(日本書紀)>斉明天皇(八)建王の死と歌

斉明天皇(八)建王の死と歌

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

現代語訳

(即位4年)5月。皇孫(ミマゴ)の建王(タケルノミコ=天智天皇の子)が8歳で亡くなりました。今城谷(イマキノタニ=奈良県吉野郡大淀町今木?)の上に殯(モガリ=仮の安置所)を立てて収めました。天皇は皇孫が有順(ミサオカ=変わらない)ので、特別に重く愛情を注ぎました。悲しみを隠せないほどで、心を痛め、慟哭した様子は極めて甚だしいものでした。群臣(マヘツキミタチ)に詔(ミコトノリ)して言いました。
「万歳千秋(ヨロヅトセチアキ)の後(=斉明天皇の死後)には必ず、朕(ワ)が陵(ミサザキ=墓)に合葬しなさい」
すぐに歌を作って歌いました。
今城(イマキ)なる 小丘(オムレ)が上(ウエ)に 雲だにも 著(シル)くし立たば 何(ナニ)か歎(ナゲ)かむ その1
歌の訳
今木の丘の上に、雲だけでもハッキリと著しく立てば、何に嘆くことがあるのだろうか?

射(イ)ゆ鹿猪(シシ)を 踵(ツナ)ぐ川上(カワヘ)の 若草の 若くありきと 吾(ア)が思(モ)はなくに その2
歌の訳
射った鹿や猪の足跡を追っていくと川辺に生えている若草のよう若かった。私が思っていたよりもずっと。

飛鳥川(アスカガワ) 漲(ミナギラ)ひつつ 行(ユ)く水の 間(アイダ)も無くも 思(オモ)ほゆるかも その3
歌の訳
飛鳥川のしぶきを上げて流れていく水のように、絶え間なく、思い出してしまうよ。

天皇は時々、歌を歌って悲しみに泣きました。
Pre<<<  >>>Next 
スポンサードリンク

解説

建王
中大兄皇子(天智天皇)の子で、斉明天皇(皇極天皇)の孫に当たります。建王は生まれついて話すことができず、障害を持っていたようです。だから斉明天皇は特別に可愛がった。

垂仁天皇の子供の譽津別王(ホムツワケノミコト)も話すことのできない子でした。

こういった神話や伝承を残すというのは、ちょっと不思議に思います。障害を持った身内の記述を隠すという選択肢もあったでしょうに。古代では、こういった障害をむしろ特別に愛らしいと考えたのかもしれませんし、幼い者や弱者を愛する性質が日本にはありましたから、そういうことかもしれません。
歌の意味
斉明天皇が歌を作ったことになっていますが、実際に斉明天皇が作ったのかは疑問。そもそも建王のために作ったのではなくて、当時流行していた歌をここに当てはめたと考えた方が自然でしょう。
スポンサードリンク

原文

五月、皇孫建王、年八歲薨。今城谷上、起殯而收。天皇、本以皇孫有順而器重之、故不忍哀傷慟極甚。詔群臣曰、萬歲千秋之後、要合葬於朕陵。廼作歌曰、

伊磨紀那屢 乎武例我禹杯爾 倶謨娜尼母 旨屢倶之多々婆 那爾柯那皚柯武 其一
伊喩之々乎 都那遇舸播杯能 倭柯矩娑能 倭柯倶阿利岐騰 阿我謨婆儺倶爾 其二
阿須箇我播 瀰儺蟻羅毗都々 喩矩瀰都能 阿比娜謨儺倶母 於母保喩屢柯母 其三

天皇時々唱而悲哭。
Pre<<<  >>>Next 
スポンサードリンク

SNSボタン

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

ページ一覧

編集