斉明天皇(十七)西漢大麻呂の讒言・難波吉士男人の書

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斉明天皇(十七)西漢大麻呂の讒言・難波吉士男人の書

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現代語訳

11月1日。朝廷で冬至の会がありました。会の日にまた天子を顔を合わせました。朝廷にで詣でた諸藩(クニグニ)の中で、倭(ヤマト)の客人が最も優れていました。のちに出火の乱(ミヅナガレノミダレ=ボヤ騒ぎ)があって、(贈り物)は捨ててしまって、検(カムガエ=贈り物をチェックすること)はできませんでした。
12月3日。韓智興(カンチコウ)の傔人(トモビト=留学生につく役人の付き添い)の西漢大麻呂(ニシノヤマノオオマロ)は、讒言(嘘で人を貶めること)を言って、枉(マゲル=道理を曲げる)しました。客人たちは、唐朝廷から罪を問われて、流罪になりました。以前に智興(チコウ=韓智興)を三千里の外国へと流していました。客人の中に伊吉連博徳(イキノムラジハカトコ)がいて、申し上げました。それですぐに罪を免除されました。事が終わって、勅がありました。
「国家、来年には必ず海東(=朝鮮のこと)の政治の有事がある。お前たち、倭の客人は東に帰すことはできない」
それで西京に隠匿されて、別々の場所に幽閉されました。戸を閉ざし、塞がれて、東西へと移動することは許されませんでした。何年も困り苦しみました。

難波吉士男人(ナニワノキシオヒト)の書によると、
「大唐に向かった大使は、島に座礁して船がひっくり返りました。副使は自ら天子に会って、蝦夷を見せました。蝦夷は白鹿の皮1つ・弓3つ・矢80を天子に献上した」
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解説

このページは斉明天皇即位5年の中にある伊吉連博徳の書の引用の続き。

斉明天皇5年は西暦でいうと659年。660年には新羅と唐が百済を滅ぼします。なんか世間では唐と新羅が「連合を組んだ」ような言い方をしますが、新羅はこの時期、完全に唐の属国になっていて、風習も服も政治制度も中国に習い、名前まで中国風に変える始末。プライドがないのかと突っ込みたくもなりますが、生きるためにはそうするしかない、っちゃそうなんですよね。

そんで660年には朝鮮半島へと出兵することが「伊吉連博徳」が中国に行った時にはすでに「決まっていた」のですね。その出兵情報を日本が掴んで、それで疑われて流罪になった。
留学生や遣唐使に政治情報を掴むか否かという重責を担わせていたか?と言うのも疑問です。また、直接に唐に遣唐使が送れるのならば、百済が滅んでも、さほど問題もなさそう。

ただ、少なくとも中国(唐)は日本が百済への侵攻情報をつかめば、援軍を出して来るのではないか?とは思っていたということです。
西漢大麻呂
何者か? ここ以外では出てきません。
流罪
軍事情報の漏洩は基本、縛り首。ただし、位が高い場合は流罪。流罪には二千里・二千五百里・三千里と三種類あって、三千里が最も重い。よって実質、最も重い罪に問われたということ。
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原文

十一月一日朝有冬至之會。會日亦覲、所朝諸蕃之中倭客最勝、後由出火之亂棄而不復檢。
十二月三日、韓智興傔人西漢大麻呂、枉讒我客。客等、獲罪唐朝已決流罪、前流智興於三千里之外、客中有伊吉連博德奏、因卽免罪。事了之後、勅旨、国家來年必有海東之政、汝等倭客不得東歸。遂匿西京幽置別處、閉戸防禁、不許東西、困苦經年。」難波吉士男人書曰「向大唐大使觸嶋而覆、副使親覲天子奉示蝦夷。於是、蝦夷以白鹿皮一・弓三・箭八十獻于天子。」
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