斉明天皇(十九)阿倍臣の粛慎国征伐

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斉明天皇(十九)阿倍臣の粛慎国征伐

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現代語訳

即位6年春1月1日。高麗の使者の乙相賀取文(オツソウガスモン)たち100人余りが筑紫に泊まりました。

3月。阿倍臣(アヘノオミ)…
名は漏れていて分かりません。

を派遣して、船師(フナイクサ)200艘を率いて、粛慎国(ミシハセノクニ=異民族の国)を征伐しました。阿倍臣は陸奥の蝦夷を自分の船に乗せて、大河(オオカワ)のほとりに到着しました。渡嶋(ワタリノシマ)の蝦夷1000人余り、海のほとりに駐屯して、川に向かって野営しました。陣営の中の2人が進んで急に叫んで言いました。
「粛慎の船師は多く来て、我々を殺そうとしている! だから請い願う! 河を渡って、士官し仕えようと思う!」
阿倍臣は船を派遣して2か所の蝦夷を呼び、賊(アタ=敵)が隠れているところをその船の数を問いました。2か所の蝦夷はすぐに隠れている場所を指して言いました。
「船は20艘余りです」
すぐに(隠れている蝦夷に)使者を派遣して呼び寄せました。しかし、来ませんでした。阿倍臣は綵帛(シミノキヌ=色に染めた絹)・兵(ツワモノ=兵器)・鉄(ネリカネ)を海のほとりに積んで、貪嗜(ホシメツノマシム=ほしがらせる)しました。粛慎(ミシハセ)はすぐに船師を連ねて、羽を木に掛けて、あげてはたとしました。棹(サオ=船のオールの事)を揃えて、近づいて来て。浅いところに停泊しました。1つの船の裏から2人の老翁(オキナ)を出して、巡らせて、ツラツラと沢山に積み上げた綵帛(シミノキヌ)などの品物を見せました。すぐに単衫(ヒトエキヌ)に着替えて、それぞれ布を1端(ヒトムラ)を引っさげて船に帰って乗りました。しばらくして、老翁がまた来て、換衫(カエキヌ)を脱いで置いて、あわせて引き下げた布を置いて、船に乗って退きました。阿倍臣は幾つかの船を派遣して呼び寄せました。返事は来ませんでした。弊賂弁嶋(ヘロベノシマ=地名か地形か?)に帰りました。しばらくして、和平をしようと乞いました。聞き入れませんでした。
聽弊賂辨(ヘロベ)は渡嶋(ワタリノシマ)の一部です。

粛慎の柵(サク=防衛施設)で戦いました。その時に能登臣馬身竜(ノトノオミマムタツ)は敵のために殺されました。なお戦い、まだ勝敗が決まっていない時に、賊(アタ=敵)は破れて、自分の妻子を殺しました。
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解説

粛慎が異民族であることは間違いないのですが、どこの異民族かはよく分かりません。

和平を結ぶ時には、中間の土地に「品物」を置き、それを手にして、代わりの品物を置いていけば、それで和平が成立するというものがあったのですが、この文章を読むと、それが粛慎の文化としてあったのかは、なんだか微妙。粛慎にはそう言った文化がなくて、よくわからないうちに、戦争が再開された、そんな風にもとれます。
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原文

六年春正月壬寅朔、高麗使人乙相賀取文等一百餘、泊于筑紫。
三月、遣阿倍臣闕名率船師二百艘、伐肅愼国。阿倍臣、以陸奧蝦夷令乘己船到大河側。於是、渡嶋蝦夷一千餘屯聚海畔、向河而營。營中二人進而急叫曰「肅愼船師多來將殺我等之故、願欲濟河而仕官矣。」阿倍臣、遣船喚至兩箇蝦夷、問賊隱所與其船數、兩箇蝦夷便指隱所曰「船廿餘艘。」卽遣使喚、而不肯來。阿倍臣、乃積綵帛・兵・鐵等於海畔而令貪嗜。肅愼乃陳船師、繋羽於木舉而爲旗、齊棹近來停於淺處、從一船裏出二老翁、廻行熟視所積綵帛等物、便換着單衫各提布一端、乘船還去。俄而老翁更來、脱置換衫幷置提布、乘船而退。阿倍臣遣數船使喚、不肯來、復於弊賂辨嶋。食頃乞和、遂不肯聽(弊賂辨、渡嶋之別也)據己柵戰。于時、能登臣馬身龍、爲敵被殺。猶戰未倦之間、賊破殺己妻子。
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