斉明天皇(二十)漏剋・50人の蝦夷・粛慎との宴会

MENU
TOP>斉明天皇(日本書紀)>斉明天皇(二十)漏剋・50人の蝦夷・粛慎との宴会
スポンサードリンク

斉明天皇(二十)漏剋・50人の蝦夷・粛慎との宴会

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

原文

夏五月辛丑朔戊申、高麗使人乙相賀取文等、到難波館。是月、有司、奉勅造一百高座・一百衲袈裟、設仁王般若之會。又、皇太子初造漏剋、使民知時。又、阿倍引田臣闕名獻夷五十餘。又、於石上池邊作須彌山、高如廟塔、以饗肅愼卅七人。又、舉国百姓、無故持兵往還於道。(国老言、百濟国失所之相乎。)

現代語訳

(即位6年)夏5月8日。高麗の使者の乙相賀取文(オツソウガスモン)たちが難波館(ナニワノムロツミ)に到着しました。

この月、有司(ツカサ=役人)は勅(ミコトノリ)を受け賜り、100の高座、100の納袈裟(ノウケサ=僧の法衣)を作り、仁王般若の会を設けました。また皇太子は初めて漏剋(ロコク=水時計)を作りました。民に時を知らせました。また阿倍引田臣(アヘノヒケタノオミ)…
名が漏れていて分かりません。

夷(エミシ)50人余りを献上しました。
また、石上池(イソノカミノイケ=現在の奈良県天理市石上)のほとりに須弥山(スミノヤマ=仏教で神聖視される山)を作りました。高さは廟塔(=ここでは寺院の塔)のようでした。そこで粛慎(ミシハセ=異民族)47人と宴会をしました。また、国全体の百姓は理由もなく、兵器を持って、道を往来している。
国の老人は百済国が土地を失う、凶相だと言いました。
スポンサードリンク

解説

50人の蝦夷

で阿倍臣が粛慎を征伐していますから、この時得たのがこれらの蝦夷なんでしょう。粛慎とまた宴会をしています。征伐の終わりはいつも宴会なんですよね。ヤマトタケルとクマソタケルの話も宴会でしたから、日本人にとって征伐とは宴会を含んだものだったんじゃないかと思います。
Pre<<<  >>>Next 
スポンサードリンク

SNSボタン

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

ページ一覧

管理人リンク

編集