斉明天皇(二十一)道顯の日本世記・百済王の処遇

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斉明天皇(二十一)道顯の日本世記・百済王の処遇

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原文

秋七月庚子朔乙卯、高麗使人乙相賀取文等罷歸。又覩貨羅人乾豆波斯達阿、欲歸本土求請送使曰、願後朝於大国、所以留妻爲表。乃與數十人入于西海之路。(高麗沙門道顯日本世記曰、七月云々。「春秋智、借大將軍蘇定方之手、使擊百濟亡之。或曰、百濟自亡。由君大夫人妖女之無道擅奪国柄誅殺賢良、故召斯禍矣、可不愼歟、可不愼歟。」其注云「新羅春秋智、不得願於內臣蓋金。故、亦使於唐捨俗衣冠請媚於天子、投禍於隣国而搆斯意行者也。」伊吉連博德書云「庚申年八月百濟已平之後、九月十二日放客本国。十九日發自西京、十月十六日還到東京、始得相見阿利麻等五人。十一月一日、爲將軍蘇定方等、所捉百濟王以下・太子隆等・諸王子十三人・大佐平沙宅千福・国辨成以下卅七人幷五十許人、奉進朝堂、急引趍向天子。天子、恩勅見前放着。十九日賜勞、廿四日發自東京。」
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現代語訳

(即位6年)秋7月16日。高麗の使者の乙相賀取文(オツソウガスモン)たちは帰って行きました。また覩貨羅人(トカラノヒト=トカラ人)の乾豆波斯達阿(ゲンヅハシダチア)は本土(モトノクニ=故郷の国)に帰りたいと思って、使者を送るよう求め請願して言いました。
「願わくば、後に大国(ヤマト)の朝廷に仕えましょう。その証拠に妻を止めて、その印とします」
数十人と西海之路(ニシノウミツジ)に入りました。
高麗の沙門(ホウシ=法師)の道顯(ドウケン)の日本世記(ニホンセイキ)によると、7月に云々。
春秋智(シュンシュウチ=新羅の武烈王のこと=金春秋のこと)は大将軍の蘇定方(ソテイホウ=唐の武将)の手を借りて、百済を挟み撃ちにして滅ぼしました。あるいは、百済は自ら自然と滅びてしまいました。君主の大夫人(ハシカシ)の妖女(タワメノコ)が無道で、欲しいままに国の柄(カビ=国の柄=国の根本=権力)を奪って、賢く正しい人と誅殺してしまったために、この災いを招いたとも言います。慎ましくありませんでした。
その注釈によると新羅の春秋智は、(百済征伐の)整番を(高麗の)内臣の蓋金(コウキン)にしたが(援軍を)得られませんでした。それで唐(コロモシ)に使者を送って、俗(クニワザ=自国の風習)の衣服や冠を捨てて、天子に媚て請願して、禍(ワザワイ=ここでは侵略のこと)を隣国に及ぼし、この計画を構えたと言います。
伊吉連博徳(イキノムラジハカトコ)の書によると、庚申年(660年)8月。百済はすでに平定され、9月12日に客人を本国に放しました。9月19日に西京(西安のこと)を出発しました。10月16日に帰って東京(洛陽のこと)に到着して、初めて阿利麻(アリマ=東漢直阿利麻)たちと再会できました。11月1日に将軍の蘇定方(ソテイホウ)たちのために捕らえられた百済の王(=義慈王)とその以下の太子の隆(リュウ)など、もろもろの王子13人と、大佐平(ダイサヘイ=冠位の名前)の沙宅千福(サタクセンフク)・国弁成(コクベンジョウ)より以下の37人、合わせて50ほどの人が、朝堂(ミカド)に献上されました。急いで天子の元へと引き出されました。天子は、恩勅(メグミ=慈愛)をかけ、許しました。11月19日に(遣唐使たちを)ねぎらいました。11月24日に東京(=洛陽)から出発しました。
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解説

トカラ人
日本に漂着した外国人です。おそらくはタイ人です。顔立ちの違う彼らを日本人は奇異の目で見たでしょうね。
日本世記
高麗の僧の「道顯」の本。藤原鎌足と仲が良かったらしく、藤原家の書物に登場する。ただし日本世記の原本は無く、引用のみです。しかし、やっぱりというか、どう考えてもというか、古事記以前にも「本」というのは一般的に流通していたと考えるべきでしょうね。
伊吉連博徳
伊吉連博徳の名前はすでに出ています。
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