斉明天皇(二十二)百済の滅亡と復興・福信と自進

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斉明天皇(二十二)百済の滅亡と復興・福信と自進

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原文

九月己亥朔癸卯、百濟、遣達率(闕名)・沙彌覺從等來奏曰或本云逃來告難「今年七月、新羅恃力作勢、不親於隣。引搆唐人、傾覆百濟。君臣總俘、略無噍類。(或本云、今年七月十日、大唐蘇定方、率船師、軍于尾資之津。新羅王春秋智、率兵馬、軍于怒受利之山。夾擊百濟相戰三日、陷我王城。同月十三日、始破王城。怒受利山百濟之東堺也。)於是、西部恩率鬼室福信、赫然發憤據任射岐山(或本云北任敍利山)。達率餘自進、據中部久麻怒利城(或本云、都々岐留山)。各營一所、誘聚散卒。兵盡前役、故以棓戰。新羅軍破、百濟奪其兵。既而百濟兵翻鋭、唐不敢入。福信等、遂鳩集同国共保王城。国人尊曰、佐平福信、佐平自進。唯福信、起神武之權、興既亡之国。」
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現代語訳

(即位6年)9月5日。百済は達率(ダチソチ=官位の名前)と
名は漏れていて分からない。

沙弥(サミ=出家した男)の覚従(サミカクジュ)たちを派遣して、来て申し上げました。
ある本によると逃げてきて、難(ワザワイ=新羅と唐の侵攻のこと)を申し上げたとも。

「今年の7月に新羅を力に頼み、勢いを持って、隣国なのに、親しくしませんでした。唐人(オロコシビト=中国人)と合わせて、百済を傾け、転覆させました。君主も臣も皆、虜囚となり、ほぼ残ったものはありませんでした。
ある本によると、今年の7月10日に大唐の蘇定方(ソテイホウ)は船師(フナイクサ)を率いて、尾資(ビシ=地名)の津(=港)に軍を進めました。新羅の王の春秋智(シュンシュウチ=金春秋)は兵馬(イクサ)を率いて、怒受利之山(ノズリノムレ)に軍を進めました。百済を挟みうちにして、戦うこと3日。我が王城を陥落させました。
7月13日。初めて王城を破りました。怒受利之山は百済の東の境と言います。

西部(サイホウ)の恩率(オンソチ=官位の名前)の鬼室福信(キシツフクシン=義慈王の父の武王の従兄)は怒り、発奮して、任射岐山(ニザギノムレ)を拠点としました。
ある本によると、北任敍利山(キタノニジョリノムレ)だとといいます。

達率の余自進(ヨジシン)は中部の久麻怒利城(クマノリノサシ)を拠点としました。
ある本によると、都々岐留山(ツツキルノムレ)だといいます。

それぞれが一箇所で陣営を敷いて、散った兵を誘い集めました。兵(ツワモノ=兵器)は前の役(エダチ=戦争)で尽きました。それで棓(ツカナギ=棒)を持って戦いました。新羅の軍は敗れました。百済はその兵器を奪いました。百済の兵はかえって精鋭になっていました。唐は敢えて入りませんでした。福信(フクシン)たちは、ついに同国人を求め集めて、共に王城を守りました。百済の国の人は尊んで言いました。佐平(サヘイ=官位の名前で一番上位)の福信、佐平の自進と。ただし、福信だけが神々しい勇気ある権謀を起こし、すでに滅んだ国を起こしました」
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解説

百済の反転攻勢は史実か?
百済が王城を取り返したという話は、中国や朝鮮の歴史書にはありません。日本書紀での記述はあくまで「百済の使者の発言」としての記述であり、使者が「百済はまだやれる」と日本に思わせるために嘘をついた可能性もあります。

ただし、中国朝鮮は儒教の国で自分を誇大して書くのが普通ですし(まぁ儒教に限らないっちゃそうなんだけど)、結末は「百済滅亡」であり、そこのところは間違いありませんから、多少の反転攻勢があって、王城を取り返されたことを「省略」したとしても不思議じゃないんですよね。
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