斉明天皇(二十四)続麻郊で船がひっくり返る・信濃でハエの群れが国境を越える

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斉明天皇(二十四)続麻郊で船がひっくり返る・信濃でハエの群れが国境を越える

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現代語訳

(即位6年)12月24日。天皇は難波宮(ナニワノミヤ)へと行きました。天皇は福信(フクシン=鬼室福信)が(救援を)乞う気持ちに従い、筑紫に行き、救いの軍隊を派遣しようと思って、まず最初に行って、諸々の軍器(ツワモノ=兵器)を準備しました。

この年、百済のために、新羅を征伐しようと思って、すぐに駿河国に勅(ミコトノリ)して船を作らせました。作り終わって、続麻郊(オミノ=伊勢国多気郡麻績郷=現在の伊勢市西北の祓川河口)に引いて到着した時に、その船は夜中に理由もなく、艫舳(ヘトモ=船尾から船首)がひっくり返りました。人々は終わりには敗れるだろうと悟りました。科野国(シナノノクニ)は言いました。
「蠅(ハエ)が群がって、西に向かって、巨坂(オオサカ=信濃と美濃の国堺の神坂峠)を飛び越えて行きました。大きさは10囲(イダキ)ほど。高さは蒼天(アメ)に届くほどでした」
救援軍が敗れる凶兆の怪異と悟りました。童謡があります。
まひらくつのくれつれをのへたをらふくのりかりがみわたとのりかみをのへたをらふくのりかりが甲子(ジス)とわよとみをのへたをらふくのりかりが」
歌の意味不明
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解説

斉明天皇(皇極天皇)の崩御は即位7年。つまり、この翌年。年齢は67歳。古代ではかなりの高齢だと考えていいでしょう。その斉明天皇が67歳で筑紫へ行幸したのですから、命を削って百済の救援をしたと言っていいでしょうね。

斉明天皇は中大兄皇子(天智天皇)の母親で、彼の後見人というよりは、息子の意のままに動く「傀儡」というのがよく言われることですが、皇極天皇の時代に乙巳の変があり、孝徳天皇に皇位を譲って「皇極上皇」となり、その後は、また斉明天皇となって返り咲いたことを考えると、本当に「傀儡」だったのか? 中大兄皇子が天智天皇になるまでの「リリーフ」だったのかというのは、やっぱり疑問。

ところで、日本が百済を救援することを「百済との絆」と見ることが多いですが、百済の役割はどう考えても中国の文化を取り入れることが大きいわけです。となると、百済を救援することで、中国と敵対し、関係を悪化させることは、メリットが薄いように思えます。

斉明天皇が百済を救援した理由には、「儒教」があったと思います。

儒教では道徳が重んじられ、「悪」には徹底的に対抗します。また、上下関係を重んじ、日本を「上」として朝貢をした百済を救援するのは「上」である日本にとっては正しいことであり、また義務でもあります。つまり、日本はこの時期、儒教のロジックによって動いていたのだと思います。

しかし、日本は儒教国ではありません。この時期に儒教的な行動をとったのは、中大兄皇子や孝徳天皇が儒教を学んでいたからであり、おそらくは斉明天皇も影響されたか学んでいたからではないかと思います。それでも・・・何度も言いますが、日本全体は儒教ではありません。ということは、彼ら以外はこの行動に対して批判的だったはずということです。

それが童謡であり、蠅だったり、船の異変なんでしょう。

あともう一つ。
百済を救援した理由のもう一つが「内政問題を誤魔化すため」だったのではないかということです。度重なる工事と、政敵をハメて追放する中大兄皇子のやり方に国内は不満だった。それを誤魔化すために、外部に敵を作る必要があった。これは現代でもよくあることです。案外、この理由が大きかったのかもしれませんね。
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原文

十二月丁卯朔庚寅、天皇幸于難波宮。天皇、方隨福信所乞之意、思幸筑紫、將遣救軍。而初幸斯、備諸軍器。是歲、欲爲百濟將伐新羅、乃勅駿河國造船。已訖、挽至績麻郊之時、其船夜中無故艫舳相反。衆知終敗。科野國言「蠅群向西、飛踰巨坂。大十圍許、高至蒼天。」或知救軍敗績之怪。有童謠曰、
摩比邏矩都能倶例豆例於能幣陀乎邏賦倶能理歌理鵝美和陀騰能理歌美
烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝甲子騰和與騰美烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝
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