斉明天皇(二十六)朝倉橘広庭宮の鬼火と祟り・東漢草直足嶋の神罰

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斉明天皇(二十六)朝倉橘広庭宮の鬼火と祟り・東漢草直足嶋の神罰

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原文

五月乙未朔癸卯、天皇遷居于朝倉橘廣庭宮。是時、斮除朝倉社木而作此宮之故、神忿壤殿、亦見宮中鬼火。由是、大舍人及諸近侍病死者衆。丁巳、耽羅始遣王子阿波伎等貢獻。(伊吉連博德書云「辛酉年正月廿五日還到越州、四月一日從越州上路東歸、七日行到檉岸山明。以八日鶏鳴之時順西南風、放船大海。海中迷途、漂蕩辛苦。九日八夜僅到耽羅之嶋、便卽招慰嶋人王子阿波伎等九人同載客船、擬獻帝朝。五月廿三日奉進朝倉之朝、耽羅入朝始於此時。又、爲智興傔人東漢草直足嶋所讒、使人等不蒙寵命。使人等怨徹于上天之神、震死足嶋。時人稱曰、大倭天報之近。」
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現代語訳

(即位7年)5月9日。天皇は朝倉橘広庭宮(アサクラノタチバナノヒロニワノミヤ)に移って居ました。この時に朝倉社(アサクラノヤシロ=福岡県朝倉軍朝倉町山田に麻氐良布神社【マテラメジンジャ】)の木を切り除いて、この宮を作ったために、神が怒って殿(オオトノ)を壊しました。また宮の中に鬼火(オニビ)が見られました。それで大舎人(トネリ)と諸々の近くに仕える者が病気になって死ぬ者が多くいました。
5月23日。耽羅(タムラ=済州島)が初めて、王子の阿波伎(アハギ)などを派遣して、貢(ミツキ)を献上しました。
伊吉連博徳(イキノムラジハカトコ)の書によると、
辛酉年(661年)1月25日。帰って越州(エッシュウ=江南道の一部)に到着しました。
4月1日。越州から道を登って、東に帰りました。
4月7日。檉岸山(テイガンサン)の南に到着しました。
4月8日。鶏の鳴く頃に、西南の風に従い、船を大海へと放ちました。海の中の道に迷い、漂流し辛苦しました。9日と8夜経って、やっと耽羅嶋(=済州島)に到着しました。すぐに嶋人の王子の阿波伎(アハギ)たち9人を招き慰労して、同じく客人の船に乗せて、帝朝(ミカド)に献上しようとしました。
5月23日に朝倉の朝(ミカド)に献上しました。耽羅が朝廷に入るのはこの時から始まりました。また、智興(チコウ)が傔人(トモビト=留学生につく後見人の役人)の東漢草直足嶋(ヤマトノアヤノカヤノアタイタリシマ)の讒言(=嘘の密告)によって使者たちは、天皇の寵愛(=援助)を受けられなかった。使者たちの恨みは、上天(アメ)の神に通り、足嶋(タリシマ)を震死(=雷に打たれて死ぬこと)させました。その時代の人は言いました。
「大倭(ヤマト)の天の報復は近い(=早い)なぁ」
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解説

斉明天皇と罰
どうも斉明天皇は評判が悪い、と思いますね。
智興と天罰
智興などの遣唐使が讒言によって流罪となったお話は以下のページにあります。

そこでは讒言をしたのは西漢大麻呂なのですが、このページでは東漢草直足嶋です。名前が全然違うから同一人物とは思えない。まぁ、どちらかが嘘を言って、その嘘を信じた一方が加担したとか、じゃないかなぁと思います。もしくはグルか。
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