天智天皇(二)蘇將軍と契苾加力

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天智天皇(二)蘇將軍と契苾加力

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原文

是月、蘇將軍與突厥王子契苾加力等、水陸二路至于高麗城下。皇太子、遷居于長津宮、稍聽水表之軍政。

現代語訳

この月(斉明天皇即位7年7月)に蘇将軍(唐の蘇定方)と突厥(トツケツ)の王子の契苾加力(ケイヒツカリキ)たちと水陸の2経路から高麗の城下(サシモト)に到着しました。
皇太子は長津宮(ナガツノミヤ)に移って居ました。そこで海外の軍事事情を聞きました。

解説

ちなみに斉明天皇が崩御したのは斉明天皇7年の7月24日。斉明天皇は百済救援のために九州の朝倉橘広庭宮(アサクラノタチバナノヒロニワノミヤ=福岡県朝倉郡)に移動していました。その土地での崩御です。皇太子も当然、九州に居ました。このページでの皇太子が「長津宮」に居たというのはそういう経緯の結果です。

長津宮
長津宮は博多あたりにあった宮のこと。

蘇定方と契苾加力
唐は新羅と連合して…というか新羅が唐の属国となって、高句麗(高麗)と百済を滅ぼすことになります。その将軍が蘇定方です。蘇定方に付いてきた契苾加力は突厥(トゥルクとかテゥルク)というモンゴルの遊牧民族の国家の人物です。突厥の可汗(カガン=王)の孫とされます。突厥は6世紀にはモンゴルを統一したのですがその後分裂し、8世紀にはウイグルに併合されます。
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