天智天皇(九)州柔から避城へ

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天智天皇(九)州柔から避城へ

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原文

冬十二月丙戌朔、百濟王豊璋・其臣佐平福信等、與狹井連闕名・朴市田來津議曰「此州柔者、遠隔田畝・土地磽确・非農桑之地、是拒戰之場、此焉久處、民可飢饉。今可遷於避城、避城者西北帶以古連旦涇之水、東南據深泥巨堰之防、繚以周田、決渠降雨、華實之毛則三韓之上腴焉、衣食之源則二儀之隩區矣。雖曰地卑、豈不遷歟。」於是、朴市田來津獨進而諫曰「避城與敵所在之間一夜可行、相近茲甚。若有不虞、其悔難及者矣。夫飢者後也、亡者先也。今敵所以不妄來者、州柔設置山險盡爲防禦、山峻高而谿隘、守易而攻難之故也。若處卑地、何以固居而不搖動及今日乎。」遂不聽諫而都避城。是歲、爲救百濟、修繕兵甲・備具船舶・儲設軍粮。是年也、太歲壬戌。
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現代語訳

(即位1年)冬12月。百済王の豊璋とその臣下の佐平(サヘイ)の福信たち、狹井連(サイノムラジ)と
名前は漏れていてわからない

朴市田来津(エチノタクツ)と合議して言いました。
「この州柔(ツヌ=都々岐留山)は田畑から遠く隔たっていて、土地は痩せている。農業や養蚕に適した土地ではない。ここは防戦する場だ。ここを長く本拠としていれば、民は飢饉になって死んでしまう。今、避城(ヘサシ)へと移るべきだ。避城(ヘサシ)は西北の一帯の古連旦涇(コレンタンケイ=古くから連なる川の上流という意味)の川の水で、東南は深泥巨堰(シンデイコエン=深い泥の大きな堤防)を防衛に頼れる。周囲に田を巡らし、溝を作り、雨が降る。そうすれば華が咲き、実が成り、毛(クニツモノ=特産物)ができる。これが三韓でも上物です。衣食の源は天地の間にあるものです。土地が低く、卑しいと言っても、どうして移らないでいられようか」
すると朴市田来津(エチノタクツ)が独り進み出て、諌めて言いました。
「避城と敵の居るところは、一晩で行ける場所です。お互いにひどく近いのです。もし、不慮のことがあれば、悔やんでも悔やみきれません。飢えは後のことです。滅亡は先のことです。今、敵がみだりに攻めて来ないのは、州柔(ツヌ)に山険(ヤマサカ)を設置して、完全に防御して、山が険しくて、また谷が狭いから、守りやすく、攻めにくいからです。もし、低いところを本拠とすれば、どうして、このように固く居り、動かず、今日に至ることが出来たでしょうか」
ついには諌める言葉を聞かないで、避城に都を移しました。

この年、百済を救おうと、兵甲(ツワモノ=兵器)を修繕し、船舶を準備し、軍の粮(クライモノ=食料)を育てました。この年、太歲壬戌。
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解説

百済王の豊璋は日本に人質として滞在していました。かなり頭のいい人物だったようですが、それでも「戦争」というのは机上の学問ではどうしようもないものです。豊璋が王となり、百済再興を目指すのですが、結局失敗します。その理由の一つが豊璋が「王」としてあまりに未経験だったことがあったのだと思います。
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