天智天皇(十三)白村江の戦い

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天智天皇(十三)白村江の戦い

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原文

戊戌、賊將至於州柔、繞其王城。大唐軍將率戰船一百七十艘、陣烈於白村江。戊申、日本船師初至者與大唐船師合戰、日本不利而退、大唐堅陣而守。己酉、日本諸將與百濟王不觀氣象而相謂之曰、我等爭先彼應自退。更率日本亂伍中軍之卒、進打大唐堅陣之軍、大唐便自左右夾船繞戰。須臾之際官軍敗績、赴水溺死者衆、艫舳不得

現代語訳

(即位2年)8月17日。賊(アタ)の将軍(=ここでは新羅の将軍)は州柔(ツヌ)に到着して、その王城を囲みました。大唐の軍の将軍は戦船(イクサフネ)170艘を率いて、白村江に陣を張って連なりました。

8月27日。日本の船師(フナイクサ)の最初に到着したものと大唐の船師が出会って戦争になりました。日本は不利となり負けて退却しました。大唐は守りを固めました。

8月28日。日本の諸々の将軍と百済王(=豊璋)は気象(アルカタチ=状況)を観ずに、語り合って言いました。
「我らが先に戦争を仕掛ければ、彼らは自然と退却するでしょう」
さらに日本の伍(ツラ=仲間の統率)が乱れた兵卒を率いて進んで、大唐が陣を硬くした軍を打ちました。大唐は左右から船を挟んで囲んで戦いました。須臾之際(トキノマ=あっという間に)、官軍は破れ続けました。水に落ちて溺れて死ぬ者が多かったです。船の舳先と船尾を回旋させることができませんでした。朴市田来津(エチノタクツ)は天を仰いで誓い、歯を食いしばって怒り、数十人を殺しました。しかし、戦死しました。この時、百済王の豊璋は数人と船に乗って高麗に逃げ去りました。
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解説

負け戦の典型って感じがしますね。
歴史的な戦争となる白村江の戦いはこれでお終いです。大事件の割には描き方はアッサリしていると思うのです。確かに、経緯はしっかりと書かれているんですが、もうちょっと記述があってもいいんじゃないかと。

当時の中国(唐)は大きな国だったハズ。そこと戦ったってことは凄いこと。だから、こんな描かれ方はおかしい。ような気がしますが、それは中国が「古代では凄い国だった」という偏見があるからじゃないかとも思います。というのも、中国は異民族にボコボコにされる繰り返しの歴史と言っていいものだからです。その異民族へのあまりの恐怖が形になったのが「万里の長城」なんですね。あそこまで巨大な壁を作らないと恐ろしくて仕方がない、それが中国の漢民族の現実ってものです。

唐が高句麗(高麗)を征伐したのも、そういう「異民族への恐怖」があってこそのこと。放置しておくと、後々には攻めてくるのがパターンだから、必死にクソ寒い高句麗(高麗)へと遠征に来るわけです。

日本と唐が戦争したといっても、どの程度の意味があったのかは、実際のところは何とも言えないんじゃないかと思うんですよね。中国が嫌いな異民族は皆「騎馬民族」なんです。日本は騎馬民族じゃない。日本が多少、力をつけても、中国まで来るとは思えないし、そういう関係でもなかったんじゃないかと。
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